
crush on(みやつ)
訪れては流れていく時間とは、誰にとっても平等である。
さまざまな『奇妙』に溢れている世の中には、例外も存在して、当て嵌まらないことも多いだろう。しかし、この一般論に対する否やは、承太郎になかった。その通りだ。一秒は、誰にとったってどんな時だって、一秒なのだ。だけど人生には、ああそれなのに、と思う時が多々ある。『時間』は、『状況』に応じて、『変化』する。自分の置かれている現状に左右する。場合によってその時感じる一秒一分一時間、いわゆる体感時間が違うというのは、それこそ奇妙なことじゃあないか。
実家のある閑静な住宅街と比べれば都会も都会。都心と呼ばれる日本の中心に立ち、ごちゃごちゃとした景観を眺めている。そこはもうネオンが点き始め、夜の顔を覗かせていた。東京は、我が故郷ながらいつ来てもいつ見ても慣れない場所だった。自分とは合わない喧しさにやれやれと嘆息しつつ、承太郎は自らの手首をちらと見る。過酷な旅を共にしながら今も使い続けているタグ・ホイヤーは正しい時刻を示してくれる……もどかしいぐらい正確に。
空気が揺れる。停止していた人混みが一斉に動き出す。世界中渡り歩いたあの五十日の経験を積んでさえ、巨大な交差点と、信号が青になった途端渡り始める人の数には圧倒されるばかりだった。午後六時過ぎ。学校や会社から解放される時間帯。これから家路につく者、友人や同僚と飲みに繰り出す者。目的地にバラつきはあれどみんな立ち止まることはない。せかせかと急ぎ歩く。彼らは今、きっと、一時間をあっという間に感じているに違いなかった。そうなのだ……楽しかったり忙しかったりすれば一日など一瞬で終わる。逆に、やることが見つからないのならば時は、ただゆったり過ぎていく。つまり『花の金曜日』の繁華街を目の前にして、駅の傍で佇んでいる男にとっての五分十分とは拷問にも等しい長時間なのだ。
「ごめん、待った?」
「ううん! 今来たから大丈夫」
成功した待ち合わせ。素直な謝罪と、それを気遣う優しい嘘。相手を想うがゆえのお約束を済ませた男女はさり気なく手を繋いで歩き出す。週末のデートとはそんなにも楽しいものか、足取りが弾んでいた。駅前には、承太郎の周りにはそんな光景が溢れていて、望まずとも視界に入ってくる。彼らは、五分十分を長いとは感じないだろう。時計を見たりもしない。今をめいっぱい楽しむだけなのだ。
ふうう……、と、肺を満たし、侵した紫煙を吐き出していく。冷えた夜気にくゆらせながら、承太郎は考える。時の流れへの違和感、これは人間特有の感覚ではないだろうか。過去にも同じ事象を考え悩んだ者は多いはず。となると、そうだな今度、そういったことについて書かれた本でも探してみよう。以前に古びた館を探索していた時見かけた……本だらけの部屋があったのを覚えている。せっかくのだだっ広い古書庫、利用しなければ損だ。次、あの館へ寄る機会があったら奴にも探させて……そこまで思いを巡らせて、
今度と言わず今すぐ読みたくなってきた。
まだ来ない『奴』を待つ。今のこの時間は歩みが遅過ぎる……こうして思考は振り出しへと戻っていく。人を待つには、承太郎はあまりに手持無沙汰だった。煙草を吹かす以外にすることがない。けれど体を包む時間は鈍足で、腕時計を見やっても、さっき確認してから五分も経っていない。待っていることとはこんなにも気力を消耗するものだったのか。精神的な疲れから視線がさまよう。こちらに近付きたそうな目をしている女学生の集団を見つける。おいおいどうか来るんじゃあねえぜ。祈る心地と剣呑な眼差しで牽制する。誰も近付けてはならないと思っていた。誰も、巻き込みたくはない。人混みの中で、けれどもせめて、誰とも関わらず一人、五感を研ぎ澄ます。ついでに第六感というものも……星のあざに触れたのはほぼ無意識だった。
胸が騒ぐ。奴を感じる。大雑把にだが位置を感知している。エジプトの時と同じ、分かる。来ている。じわじわと近付いている。
だからこのまま待ち惚けているわけにもいかない。油断すべきじゃあない。たとえ停戦状態にあったとしてもあの男は、危うい。時間を遅く感じるだとか、まだ来ないのかだとか、やきもきしている場合じゃあないのだと、気を引き締めるつもりで、それまでひょこひょこ揺らしていた咥え煙草を唇でしっかり、食み直そうとした。
「吸い過ぎだ」
ぬ、と、伸びてくる。後ろから、顔の横へ。う、と喉が詰まる……呑まれてたまるか。その一心の、とっさの判断。白い手が口元に触れるか否かのタイミングで、承太郎はスタープラチナを強く呼ぶ。スタンドの出現に、手は触れることを諦めてか、案外呆気なく離れていった。スタープラチナがつくった隙を無駄にすることなく承太郎も素早く身を捩りながら振り向く、その時、周囲の違和感に気付く。辺りはもう夜……それにしても、静かな夜……外の喧騒が一切聞こえなくなっている。世界から自分だけが切り離されている。いや、自分ともう一人だけの世界がつくり出されている。もう一人の心が生み出した力、精神力によって、この空間は在る。時間の停止。強力なスタンド能力。激しい死闘は嫌でも思い出された。だが、
「DI、O?」
DIOの世界での活動可能時間を越えすっかり動けなくなった体では、もはや何が来ても避けることはできない。迫るDIOを見つめたまま承太郎は戸惑った。戸惑いつつも、自身の動揺を当然だと思った。煩わしいジョースターの血統が無力に固まっている。そうであるのなら取るべき行動など一つしかないだろう。『DIO』は『空条承太郎』を攻撃しても良いのだ。縊り殺したって、いい。殺意に対しては承太郎もまだ戦える。だけどDIOは承太郎の危機感をばっさりと裏切ってくれた。DIOの手がふたたび頬を撫でるように動く。触れないまま、ぎりぎりを保ち、承太郎の輪郭をなぞり、
「ふ」
「もっと体を大事にしておけ」
「あ」
煙草を奪っていった……それだけだった。そして時は動き出す。DIOは指でつまんだ煙草を手のひらの中へ包み込んでいく。吸血鬼の再生力は異常、といっても熱さを感じないことはないだろうに、火をものともせず、くしゃっと握り潰して、じゅ、と肉が焦げる音をさせて、けれどそれには構わず、ちょっと眉尻を下げて、
「待たせたようだな」
詫びるように言うものだから。売り言葉に買い言葉というか……何か言い返さなければと承太郎は思った。だから、応えてしまった。
「ぜんぜん待っていないぜ。今着いたところだ」
言ってから、さあっと音がした……それは自分の中から聞こえている……血の気の引いていく音。今日だけで何度目にしてきただろう、お決まりのやり取り。相手を想う一言……時は動き出したというのに承太郎は硬直する。『お決まり』を知らないDIOは不思議そうにしている。それだけが救いだ。
ヨーロッパやアメリカに赴くのならこのジョセフ・ジョースターが貴様を見張る……祖父の声は力強く響いた。普段のおちゃらけた『ジョセフ』はどこへやら、真剣に臨む姿勢。頼りになる男、頼もしい戦士。隣に座って黙って聞くのみの承太郎は内心尊敬感心していた。一方、テーブルの向こうに着く吸血鬼に堪えた様子は見られなかったが。カイロでの一対一の戦いで、承太郎に体をぶち割られたDIOは、しかし、しぶとく生き残った。最強のスタンド使いに最も近い男をそこまで追い詰めておきながら承太郎はあともう一歩を踏み込めなかった。二つの『まさか』が合わさって、結果、新たな道を提案してみせたのはどちらが先だったか。そうして設けられたのが暴力スタンド一切なしの、話し合いの場。拳や武器や血ではなく、声として挙がる決めごと。まずホリィの回復が絶対条件にあり、これには双方の同意も早かった。問題は次。エジプトにおいてはスピードワゴン財団、その他の場所にはジョースター、と行動には常に監視の目が付くというところ。聞かされたDIOの目は精彩に欠き、死んでいる。もう少し表現をやわらかく例えたなら、DIOはむすっと拗ねていた。一応、負けた側、譲歩された側であるのであからさまな意思は見せないが、態度が雄弁に語っているのだ……『アアなんと阿呆らしい』。
「四六時中見張っていようというわけじゃあない。が、極力エジプトから出ないことだな……もしも」
何にも映していない虚ろな目をして、何に対しても気のないDIOにも構わず、ジョセフが念押しとして更にもう一言付け足ししようと口を開く。それを認め、まだ小言が続くのかといい加減うんざりとしていた白い顔が、ぴくりと色を変えたのは次の瞬間だった。
「もしも貴様がアジア圏に足を伸ばすと言うのならば、その時はわしの孫、この承太郎が」
「承太郎がか」
突然。全員の目が一点に集中したのも無理はない。頑なに無言だった者が肉声を発したのだから。注目の的になっても意に介さず身を乗り出すようにしてテーブルに片肘を付いたDIOは、もう死人の顔をしていない。煌めく瞳は焦点を結び、『見たい』ものを自らの意思で『見ていた』。ぴったりとロックオンされ見据えられて、承太郎は学帽を持ち上げる。この時は、故郷をDIOに好いようにされてたまるかと思っていた。DIOが日本の土を踏み荒らすと言うのなら受けて立つ。次は決着をつける。どちらかの死をもって、という承太郎の決死の覚悟はDIOにも伝わっていただろう。そのはずだった。
「承太郎に会えるのだな」
DIOは、ゆっくりとまばたきをした。承太郎の覚悟が『あれ?』とたたらを踏んだ。なんだろう、なにかに似ている……あ、思い出した、猫だ、猫が見せる仕草だ。子供の頃に読んだ本にはたしか、親愛の表れだと書いてあった。睨んでいるのではなく、凝視しているわけでもない、DIOは承太郎に向かってただまばたいていた。穏やかな睫の上下。眠いのかと思わせるそのまろやかさ。優しい眼差し。優しいだと。この男に限って。思うのに、承太郎もつられてまばたいていた。
なぜ。心に問う。なぜこんなにもなじむ。どうしてこんなにも落ち着く。まるでずっと前からこんな風に見つめ合える関係だったんじゃあないかと、自分でも驚くほど自然に、DIOを見つめることができた。ザ・ワールドを使わずとも形成された特別な世界……二人の世界があった。目を瞑るまでの一瞬、たった一秒は、とても緩やかで、DIOがまばたく直前、瞳の奥で笑っていることも分かるほど。互いに言葉もなく、言葉など必要とせず。一度繋がった線はまばたいても途切れることはなく。長く永くいつまでも、実際にはほんのひとときであっても。一心に見つめ合っていた……ら、ジョセフの腕が胸の前に来た。心地好い眠りから起こされたように肩が跳ねた。承太郎は思わず横のジョセフを見るのだが当のジョセフはDIOの方へ意識を向けていた。その様は、DIOの『挑発』に対しての孫の激発を抑えているようでいて、DIOの『いざない』から孫を守ろうとしていたのだろうか。
「恐い顔だなァジョセフ」
「うさんくさい笑顔よりはマシじゃ」
これは本当に『挑発』であるDIOの笑い声にも、ジョセフは始終冷静だったが、腹の中ではただならぬ予感を抱いていたのかもしれない。承太郎は祖父の腕が戦慄いていることに気付き、その手をそっと取った。瞬間的に強く握って、ぱっと放す。すれば、やっとこちらを見たジョセフは深い溜息を吐いてから、椅子に座り直した。以降黙ってしまった『議長』に代わり、壁際から一歩前へ出た、
「彼だけではない。無論、我々財団の監視も」
「承太郎だ……ああこのDIOは承太郎を指名するぞ」
財団員の冷静な威嚇も遮ったDIOに、視線だけでなく指まで向けられてようやく、承太郎ははっとした。
おれを?
思惑が見えて来ず、眉根を寄せる。やはり復讐戦でも仕掛けようってのか。その可能性だって考えたのだ。けれど、
「日本に用がある。近日中だ。付けろ。わたしに……承太郎をな」
呆気に取られる者達を見回して帝王然と言い放つDIOは微笑んでいた。策を企んでいる笑みだろうか。全てを騙す欺きの一つだろうか。それでも、自分の方を見て、また瞳を細めていき時間をかけてゆるゆるとまばたくDIOは、承太郎の目に嬉しそうに映るのだった。
格好は、ちょっと寒そうだな、と思うぐらいで奇抜でもない。にも関わらずそこら中から視線を集めてしまうのは夜でも燦々と輝く黄金色のせいか、並外れた容姿のせいか。
「この国は小さい奴ばかりだ……わたしと目線を同じくするのはお前ぐらいだな」
一番の理由は溢れ出る自信のせいだろう……それなら目立つのに絡まれないのも頷ける。逞しい上半身からのはっきりとした腰の括れに手を当てて人目も憚らず英語で夜気を揺らす。ナンパもチンピラも、誰が声を掛けられるというのか。そんな帝王の領域に、しかし承太郎はためらいもせず踏み込む。DIOもそれを迎え入れる。
「空港からここまで、ひとりで来たのか?」
「トーキョーの電車も小さい小さい。そして狭い。さしずめ貨物列車だぞ。二度とは乗らん」
「切符ちゃんと買えたのか?」
いや、そこじゃあない。
「てめぇ財団の付き添いは」
どうしたと言うのか。DIOが日本の空港に着いたなら、財団員が即身柄を取り囲み、彼らに伴われここへやって来るはずだった。見張り兼道案内として。そう、事前に聞いていた段取りは現時点でめちゃくちゃだ。承太郎は身を強張らせた。DIOが彼らを害するようなことなどあってはならない。止めを刺さなかった自分の選択のせいで彼らが命を落とすだなんて。心の中は財団員への心配が大部分を占めていたけれど、DIOにそうしてほしくないという願いが生まれていた。あの日、話し合いの席で見たDIOの微笑が消えない。だから、そうしてくれるな、と思ったのだ。ぐ、と拳を固める承太郎の険しくなる顔、低く通る問い。都会にそぐわない、重い空気。今にも始まりそうな戦いの気配。感じているだろうに、DIOは肩を竦めた。ああ、それか、と言うように。
「煩わしいのでまいてきた」
軽い物言いながら、真正面から答えた。人の目を見て話せば分かる、言ったことがはたして真か偽か。人ではないDIOだけれど、人にはない目の色のDIOだけれど、殺そうとし殺されかけたDIOだったけれど。
「いいぜ。信じる」
承太郎はひとり、首肯した。DIOと向かい合いながら、DIOを信じた。過去の選択は過ちではなかった。だから、今の選択に迷いはなかった……DIOの目は真っ直ぐだ、それで十分だった。
「何かしたのならおれの前に現れねえだろうしな。それにしても」
まいてきたとは、それはまた財団の者も大変だったろう。最重要人物を見失ったとあっては今頃肝を冷やしている。彼らの胃の健康のためにも連絡をしなければなるまい。公衆電話を探すべく駅中に戻ろうとした承太郎の腕が空中で停止する。引き留めたのはもちろんDIOだ。DIOのザ・ワールドが腕を掴み、引いていた……というよりは学ランの袖を摘まんでいる。くいくいと引っ張っている。ちょっと待って、お願い、と、控えめに。進めない、かといってスタープラチナに頼るほどでもない。振り払えない、微妙で絶妙なる力加減……困って見上げればザ・ワールドも困惑しているように見えたのだが、気のせいだろうか。
「うう、ん」
「おいおい悩ましげな声だな」
「いや……だって、てめぇ、ザ・ワールドにこういうことさせて」
「こういう?」
自分でも上手く説明できないのだが、事実、承太郎は悩ましかった。あの時の話し合いでも感じていたことだ。力には力で対抗できる、でも、『こういうこと』をされると調子が狂って仕方がない。
「では用を済ませに行くか」
「その前に。返せ」
「ン?」
「おれの」
言いかけて、やめて、代替として自分の口を指す。ン、と首を傾げふんぞり返るいきおいで偉そうに立っているDIOに一歩二歩と近付き、つい、不良をやっていた時の癖が出た。ガンを飛ばす……下から睨み上げる角度でDIOを見つめつつ、指先で唇をとんとんと叩いて見せた承太郎へ、DIOもまた瞳孔を開かせ、牙を出す。
「いいアングルだ、ねだり方は完璧といったところか……分かっているさ、煙草だろう? だが残念。そいつはもう、ない」
どういう仕組か。DIOが両手を開くと、握っていたはずの煙草が消えている。時を止めた形跡もないのに、どこへやったのやら。披露された即興の手品に、おお、となる。魂を賭けたギャンブルのイカサマならともかく、こういったパフォーマンスは昔から好きで心がはしゃぐし、感嘆してしまう。その馬鹿正直な反応が気持ち良かったらしい。笑う代わりに鼻を鳴らすDIOの、得意げな様子を隠し切れていないところが少し子供っぽく、本当に百年以上生きているのかと疑いたくなるし、それ以上に新鮮で、面白いな、と思った。
「いくぜ。DIO」
DIOと再会して、何分経ったとか。そんなことはもう気にならなくなっていた。時への拘りからも解放されて、
「離すなよ?」
このために空けたのだと言わんばかり、ぐ、とDIOに握られた手。承太郎はDIOのぬくもりを握り返していた。
「てめぇが、はぐれたらいろいろメンドーだから捕まえておくぜ」
自分に対する言い訳にしても、ひどい。