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小さな散歩者(shou)

 

 

 私は一介の使用人である。私の出生は貧しく、元はと言えば路上で生活をしていた者だ。母の顔すら思い出せぬ、気がつけば一人で路上を歩き回り物乞いをしてその日その日の食にありつく生活だった。幼い私には自力で食べ物を得る術が無く、道行く大人や食堂の裏なんかで座り込んで、たった一口のパンや肉のかけらで命を繋いでいた。泥に汚れ、痩せこけた小さな身体で、生きるために生きていた。

 そんな私の何を気に留めたものだろうか。私の主は路上で座っていた私に手を差し伸べて、この館へと連れて帰ったのだ。私に衣食住を約束し、この館の使用人として雇った。けれど決して私は主を慈悲深く優しい御仁だなどとは思わない。

 私は毎日館の中を歩き回る。所謂掃除夫だ。主はこのエジプトの地で住居を構えているが、白人の男である。殆ど出かけることの無い主の許には部下や使用人が常時何人も居るのだが、主の許に集う部下達の得体の知れなさを見れば、主もまた真っ当なお人では無いということくらいは私でも分かる。私を見下ろす男達とは決して目を合わせないようにしている。何しろ、目が合ったというだけで前任の掃除夫は痛い目に遭って、それで辞めてしまったそうなのだ。私は此処しか居場所が無いので逃げ出そうなどとは思わないが、それでも危険は回避するに限る。

 私が館の中を歩き回る一つの理由に、ネズミが入り込まないようにというものがある。外では隼が敷地内を警備している。私は館の中をというわけであるが、それにしても何故私を選んだのだろうかと疑問に思うのだ。私は主のように、また主の他の部下のように、特異な能力も持ち合わせてはいない。いつ気に触り殺されるかも分からぬ身で、また文句も言える立場では無いと自覚しているので、私は与えられた職務を全うすることだけに一生懸命であるようにしている。路上での生活を思えば、私にとってこの場所の方が幾分もマシなのである。主がたとえ人で無かったとしても、彼らが決して善人でなくとも、私を拾ってくれたのは主であることに違いは無く、そこそこに恩も感じてはいるのだ。

 

 

 さてその主であるが、名をDIOという。ちっぽけな私からすると、大変大きな身体は筋肉がついており、絵画か彫刻のように美しい男である。日に当たらない白い肌に金色の頭髪。その容姿は人を惹き付けるものだ。それは男女を問わず魅力を発している。女性も大変惹き付け、主の許には夜毎代わる代わる女性が訪れる。私もいちいち主の関係のある女性の顔など覚えていられない。英雄色を好むということなのだな、と私は傍観するのみだ。なにしろ、同じ顔は二度見ることは殆ど無い。主の部屋に入っていくところは見ても、出て行くところを見ない事だって度々ではないのだ。

 そんな主の許に女が通って来なくなってどれくらい経っただろうか。代わりに増えたのは一人の男だった。主くらいある背の高い男だ。よく主の部屋の傍で煙草を吸っているのを見かけた。新しい部下の一人だろう。だがどうやら部下では無いらしい。主は女だけでは飽き足らず、毛色の変わった者を連れてきたらしい。主の新しい愛人はこの男らしかった。それでぱたりと女を連れ込むのを辞めたところを見ると、主はこの男がお気に入りなのだろうと私は思った。目が合ったと殴られるのは御免なので、あまり顔は見ないようにしていた。だからすぐに気がつかなかったのだが、男は私が思っていたよりもずっと若いようだった。まだ少年といってもいい。それに気がついたのは、私が主の部屋の前を通りかかった時、その前で煙草を吸っていた男が私に気付き手招きをした。思わず見上げると、目深に被った帽子の下にはまだあどけなさの残る顔があった。顔を見ないようにしていたので、その煙草を吸う仕草があまりにも慣れていることや堂々とした立ち振る舞いについつい大人だと思っていた。

 少年が咥え煙草でもう一度私に向かって手招きをするので、私は困った。主の愛人に口をきいても良いものだろうかと考えたのだ。愛人というのは私がそう感じているというだけで、真実であるとは限らない。けれど、主に対して物怖じせずに接することができるというのは私が知る限りこの少年だけなので、特別な存在であることだけは確かだ。考えた末に恐る恐る「何か御用でしょうか」と少年に近寄ると、少年は私に「お前も大変だな」と私にチップをくれた。少年の故郷のものなのだろう、見たこともないチップだった。けれど、チップを貰うなんて初めてで、私は少年にお礼を言って受け取った。

 顔を合わせるたびに少年は私に話しかけるようになった。少年はいつも一人だった。主は夜にしか起きないので、明るいうちは少年は一人だった。主の部下は恐そうな人たちばかりだが、少年は恐くないのだろうか。それは後ですぐにわかった。部下達の方が少年を避けるのだ。尻尾を巻いて逃げるように立ち去るその様子に、どちらが上なのかを私は知った。少年の方が強いのだ。主の威を盾にしているわけではない。少年自身が彼らに怯えられるほどの存在なのだ。

 少年は承太郎という名だった。日本という国の生まれだそうだ。時折そんな風に自分のことを承太郎は教えてくれた。私はただ傍で座って、彼の話の聞き役だった。本当は煙草の臭いが苦手なのだけれど、鼻が曲がりそうなのを堪えて私はじっとした。私が扉の中の物音に気付くと、承太郎は煙草を消して立ち上がる。

「恐い人が起きたみたいだな?」

 恐い人だなんて、頷くことができなくて私は首を竦めた。それを見て承太郎はくつくつ笑った。

「じゃあな。ゆっくり休めよ。」

 そう言って承太郎は扉の中に消える。中から主の声が聞こえてくる。部下達の前とは違う声色に、私はそそくさとその場を離れる。睦言の盗み聞きなんて無粋な真似はできない。

 

 

 

 愛人、という言葉は少し間違っているかもしれない。私の語彙が少なくて、彼を表す言葉が見つからないのだ。主はどの女に対しても情を持っているようには見えなかった。だから伴侶というべき相手は持たないものだと思っていたのだ。ひょっとしたらどこかに妻を持っているのかもしれないし、また恋人という相手を作るようにも見えなかった。だから男の承太郎に対しても私が浮かぶ言葉は新しい愛人くらいであるのだ。それを違うと思うのは、愛人という存在は寵愛の対象だというイメージが私にはあるのだが、主の承太郎に対するそれは寵愛とは言い切れないものだ。原因は知らないけれど、時折どちらかが酷く腹を立てる。どちらもという場合もある。そうなると、承太郎の方も主も互いを尊重するということをしない。それは承太郎にとってDIOは絶対的な主人ではないことを表している。それは酷い喧嘩になるのだ。二人が本気の喧嘩になると勘付くや、館の中にいた部下達は一人残らず外へと逃げ出す。私も慌てて隙間に身体を入れて隠れる。喧嘩はいつも承太郎の敗北で終わる。力では決して主には勝てないらしかった。それほどの反逆行為とも言える承太郎の行動を、主が咎め、殺すことも捨てることもせず傍に置き続けていることが、私には主にとって承太郎が特別な存在なのだという証拠に他ならないのだが、それを承太郎は認めたがらない。いや、分かっていないという方が正しいようだ。

 決して他の部下達や女たちのように、自らの意思で此処にいるわけではないらしい。では私のように拾われてきたのか、買われてきたのか。それならそれで、やはり主に対して恩の一つも感じるだろうし、承太郎が主に対してそんな素振りを見せることも無く、私には二人の関係は不思議だった。

 喧嘩の翌日には、顔を腫れ上げさせ、立つのもやっとで、あちこち痣だらけで承太郎は煙草を吸っていた。

 

 その日も承太郎は傷だらけの指で煙草を挟み、不味そうに煙草を燻らせていた。床に座り込んで、勝手に廊下に喫煙所を設けて灰皿を置いたそこで、承太郎はぼんやりと窓の外を見ていた。顔は酷い有様で、整った綺麗な顔が、目の周りは青くうっ血し、頬には赤い殴られた痕と擦り傷が痛々しく、唇も切れてその端にはまだ薄っすら固まりかけた血がこびり付いていた。しばしば男というのは暴力や力でパートナーを支配したがるものだ。支配下に置いておくことで、安心を得る。きっと主は、この少年に逃げられたくないのだなと、承太郎の横顔を見て思った。その横顔には怒りも、主に対する憎しみも感じられなかった。私はそれを見たとき、きっと主をありのままに受け入れることができるのは、承太郎だけなのだと気付いたのだ。女には主は強すぎる。男には主を理解できない。主を理解して、受け入れるだけの強さを持ち、主には力で勝てず、けれど心は主よりも強い。承太郎は私欲の為や金の為ではなく、主の為に此処にいるのだ。それから、きっと窓の向こうの遠い遠い誰かの為に。

 承太郎は私に気付くと、煙草を灰皿に押し付けて消し、いつものように私にチップをくれた。それを両手で受け取ると、承太郎は切れた唇の端を引き攣らせて微笑んだ。大きな手が私の頭を撫でて、私の頭に手を乗せたままずるずると床の上に倒れてしまった。腕の下敷きになって慌てて這い出すと、承太郎はそのまま小さな寝息を立てている。ここまで歩いてくるのに、随分疲れてしまったらしい。すぐそこに主の部屋の扉があるのに、承太郎は自分から開ける事はしなかった。

 こんなところで寝ては身体が痛くないだろうか、冷えてしまいはしないだろうか。服の裾を引っ張ってみるがびくともしないし起きる様子も無い。外は夕暮れで、オレンジ色の空もあっという間に夜の藍色に飲まれていく。館の中も暗くなってきて、廊下を灯す小さな明かりがぽつぽつと灯りだした。空から太陽がすっかり姿を消せば、主の時間が来る。

 ぎぃ、と扉が開いた。私は恐る恐る顔を上げた。見上げると、すぐ前に主が立っていた。尻尾を巻いて逃げ出したくなるほどの威圧感を感じたが、主は承太郎にしか眼中になりようで、私が驚いて声を上げてようやく私の存在に気付いた。

「やれやれ。こんなところでそんな男とお昼寝とは、私への当て付けか?」

 これはとうとう私の命運尽きたかと覚悟した。しかし主の表情は、見たこともないほどやわらかく、眉尻の下がったその表情は帝王と恐れられる主もすっかり形無しである。いややはりここで私の命の幕引きなのかもしれない。そんな主の顔を拝むだなんて、きっと承太郎の前でだけ、ひょっとしたら承太郎だって見たこともない表情であるかもしれない。こんな主の顔を見てしまったら私はもう生きてはいられないのでは、ともう一度覚悟した。

 主はふんと鼻を鳴らして私を一瞥すると、軽々と承太郎の大きな体を抱えた。それは大事そうに、両腕で抱き上げた。そのまますたすたと承太郎を抱え部屋へ帰っていく主の背中を見つめていた。するとふいに脚を止め、主は振り返った。

「そうそう。これの番をしていた褒美をやろう。」

 そう言って、主は初めて私にチップをくれた。承太郎がくれる、あの異国のチップだ。主が投げてよこしたそれを私は慌てて受け取った。

 重たい扉の閉まる音がして、廊下には私が一人残った。耳を澄ませば、部屋の中から微かに主の声が聞こえる。まるで猫撫で声だ。

 

 

 

 私は今日も館の中を歩いて回る。ネズミが入り込まないように。

 それから、主と承太郎を見守るために。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「お、上手いもんだなあ」

 承太郎の前をネズミを咥えた猫が一匹、揚々と歩いていく。咥えたネズミを承太郎の前に置き、脚に擦り寄った。

「にゃあおう」

 ごろごろと喉を鳴らして擦り寄る猫に、承太郎は苦笑する。

「お前のご主人様はあっちだぜ。まあ、相手してくれねえからなあ。」

 承太郎は猫の頭を撫でて、ネズミ捕りを褒めてやり、ポケットを探る。取り出したそれを猫の頭上に掲げてやると、猫は嬉しそうに後ろ足で立ち上がってそれを咥えた。うにゃうにゃと声を上げながら食べるのは、野良時代の名残らしい。

「また貴様はそいつで遊んでいるのか?」

 承太郎の肩に顎を乗せ、ぬうっと現れたDIOに猫は耳をぺたりと下げる。ちゃんと人を見極められる賢い猫である。

「いいだろ、別に。こいつは可愛げがあるぜ。それに、相手してもらってるのは俺の方だしな。」

 DIOが怒っているわけでは無いと分かると、猫は再び食べ始めた。

「そんなに煮干が気に入ったのか?」

 顔を合わせるたびに、承太郎は猫に煮干をやっている。猫のおやつというのが、承太郎には煮干しか思いつかないのだけれど、猫は食事以外に餌を貰うのは初めてで、それをとても喜ぶ。今ではすっかり主よりも承太郎に懐いてしまった。食事を与える係りのテレンスでさえ撫でさせない頭を承太郎には擦り寄って甘えるのだから、猫にも善人と悪人の区別は付くのだろう。

 DIOが承太郎の頬に擦り寄って、頬に首筋にとキスをした。

「おい、猫の前だぜ」

「構うものか」

「俺が構うぜ……なんだ、猫に妬いてんのか?」

 しつこく承太郎へ愛撫を繰り返す。承太郎の制止を気にも留めず、唯一露出している顔と首に唇を寄せる。

「なに、猫にはグルーミングにしか見えんだろう」

 二人の様子をじっと見て、猫はにゃおうと鳴いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 私は路上で拾われた猫である。一介の使用人だ。

 仕事は、ネズミ捕りである。

 

 

 

 

 

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Masked World Star DIO承テイスティング企画

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