
灰かぶり幸福論
もっと大きな、まるで迷路のような場所だと思っていた。シャッターの下りた店が目立つ、十年ぶりのアーケード。いやでも、時の流れを思い知らされる。もっとも、自分だってここに足を運んだのは随分と久方ぶりのことになるわけで。いつからか確実に、衰退は始まっていたのだろう。
『……お店、閉めちゃうらしいの。近くに大きなスーパーができたでしょう? 承太郎…今度の土曜、ちょっと、お手伝いに行ってあげてくれないかしら』
母からそんな提案をされたのは、先週のことだ。店主に言われたとおり、承太郎は黙々と酒瓶のケースをトラックへ積みこむ。
自慢ではないが、力仕事は得意だ、と思う。それでも、夜ふかしの好きな吸血鬼に明け方まで付き合っていたのは、まずかった。普段の半分くらいの力しか出せず、思いどおりにならない手足に小さく舌打ちをひとつ。幸い、店主やその家族には、聞こえなかったらしい。
「いや、休みの日なのに本当に悪かったね…ええと、承太郎、くん」
しばらく会わない間に、こんなに大きくなっていたなんて……と目を細める年かさの男は、自分の父である空条貞夫の古い知り合い、らしい。昔から、彼の才能は頭一つ分抜けていたよ、と店主は言った。店の奥から出てきた写真には、それぞれの得意な楽器を抱えた男が二人、並んでいる。二人の内の右側……紙片に残された父の顔に、承太郎は見入った。
そもそも、この商店街に来なくなったのは、父が積極的に世界を飛び回り始めたのがきっかけだった。家族が三人そろった時、右手を母に、左手を父につながれて、色々と買い物に訪れていたような記憶がある。ほんのささやかなぜいたくの時間、承太郎は本屋で乗り物の本を買う。父はレコード店で好みの曲や楽譜を物色し、母はうつくしい花の苗や可愛らしい雑貨を探す。それぞれの幸せな時間を楽しんだ後は、行きつけのお好み焼き屋へ寄って帰るのだ。
通いはじめの頃、上手くお好み焼きを返せなかった母に対して、やさしい目を向けていた父の横顔を思い出す。貸してごらん、と伸ばされる父の指先は、音楽家らしく整っていた。ひらひらと、まるで魚のようにひるがえりながら、職人のようにお好み焼きを作っていた、父の手。
それが、果たしてどのくらいまで続いていただろう。以前は、一応ツアーの終わりごとには家へ戻ってきていたのだが。たしか承太郎が小学校に上がったくらいを契機にして、父はぷっつりと家へ戻らなくなった。
母の様子から察するに、手紙の類は届いているのだろう。が、承太郎がそれに目を通したことはない。父の生き方を恨んだり、軽蔑したりしたことがないからだ。両親の間で交わされているのだろう甘い文通に、自分が首を突っ込む筋合いはない。
そんなことを考えていたせいか、承太郎の瞳は、店の奥の青い瓶を見逃した。磨かれた靴の先がこつん、とそれへぶつかってしまう。慌ててスタープラチナで瓶の口を掴み、中身を溢すことは防いだものの。表面には壁とぶつかった時にできてしまったヒビが細かく入っていて、承太郎は大きく溜息をついた。手伝いに来たはずが、迷惑をかけてしまっている。さてこれをどうしたものか、と悩んでいる承太郎の背後から、店主が声を掛けた。
「どうしたんだ、どこか怪我でも…ああ、それか。いや、それは元々、売り物じゃあないんだ。君のお父さんが、取っておいてくれ、と私に押し付けたものでね。何でも、必要なくなったから、と言っていたが…良かったら、君が持って帰ってくれないか」
どうせ、売り物にはならないから……と笑った店主に小さく頭を下げて、承太郎は改めて瓶を観察してみる。微かに青みがかった透明の瓶は、鏡のような湖を想像させた。瓶の形からすれば、どう見ても日本酒や焼酎ではない。一番可能性が高いのはワインだろうか、と承太郎は考えた。
ここの店主は、承太郎を見た目だけで成人していると思ってしまったらしい。シャツにパンツというシンプルな恰好では、それも仕方のないことだろう。笑ってしまってから、承太郎は素直に、その瓶を持ち帰ることに決めた。
承太郎の記憶では、父がそれほど酒を好んでいたという印象はない。もっとも、子供の前では飲むのを控えていただけ、という可能性も考えられるが。
それにしても、自分でわざわざ買っておいて、必要なくなったから譲る、とは。自由人らしい父のエピソードとしては、これ以上ないほどにしっくりくる。ひとり納得しつつ、承太郎は瓶を土産に、シャッターの閉まった店を後にしたのだった。
「…酒の匂いがする」
フン、と鼻を鳴らしながら棺桶から這い出てきた相手に、承太郎は小さく息をついた。読んでいた本に、紐の栞を挟みこんで。くあ、と大あくびをしながら身体を伸ばす相手に、承太郎はスタスタと歩み寄る。窓の外側に広がる夜と違って、電灯のついた和室はほのかに明るく、何より静かだ。
「……DIO」
小さく名を呼べば、DIOの赤い瞳がくるりと動き、承太郎を見すえる。そのまま嬉しそうに弧を描いた口元に、承太郎はそっと口づけた。軽いふれあいの後、DIOは上機嫌のまま、承太郎の被っている帽子へと手を伸ばす。
「ンッン~、やはり恋人からの寝起きの挨拶というのは、何度味わっても良いものだな。野に咲く花の間を吹き渡る一陣の風にでもなったかのような気分だ。そうは思わないか、承太郎?」
「…てめえのたとえは、回りくどいぜ」
やれやれ、と言いつつも、承太郎は帽子を落としたDIOの手を咎めない。それは承太郎が、目の前の吸血鬼に対して、並々ならぬ感情をもっているせいだ。いつからだったのか、などという無粋なことを、少年は考えない。きっとDIOの方も、それを考えたことはないだろう。
カイロの街で、心ゆくまで殺し合った。お互い血まみれのひどい姿になりながら、震える唇と唇を重ねた。それが全ての始まりで、あとはなりゆきだ。いつの間にか、奇妙な居候と暮らすことが決まってしまっていた。それでも、仲間を一人でも失っていたら、承太郎はDIOとの距離を縮めはしなかっただろう。
普通に考えれば、決して起こりえない奇跡。それを実現させたのが目の前の男だということに、承太郎はとっくの昔に気付いていて、知らぬふりをしている。
指摘すればきっと、人一倍プライドの高い恋人は、機嫌を損ねてむっつりと黙り込むだろう。あるいは、持って回ったような言い方の皮肉を、延々投げつけてくるに違いない。だからもし、そのことでDIOへ礼を言う日が来るとすれば、それはすべてが終わる日のことになる、と。承太郎はそう、心に決めていた。
別れが、どんな形で訪れるのか、それは誰にもわからない。DIOの気が変わるかもしれないし、承太郎が不慮の事故で突然消えるかもしれない。あるいはDIOが自ら消滅を望むことがあるかもしれないし、承太郎の寿命が尽きる日のことになるのかもしれない。だが、どこかにきっと、その日は待ち受けているのだ。
ならばせめて、と……口下手な自覚のある承太郎は、毎晩起き出してくる吸血鬼の傍で、趣味の読書をしながら。その目覚めを待ち、そっと『おはよう』のキスを贈ってやることに決めたのだった。
自分でも、柄ではない、とは思った。思ったが、気まぐれに試した最初の一回をDIOがえらく気に入ってしまったのだ。だから多分、今後もこの習慣が改められることはないのだろう。
「ム、そうか? 私としては、これ以上ない程に分かりやすく告げたつもりだったのだがな…どうにも、言葉というものは難しい」
ゆるく口角を上げたまま、DIOは承太郎の髪へそっと指を伸ばす。作業の後だったので、戻ってすぐに風呂へ入ったせいか、承太郎の髪はいかにも乾きたて、という感じだ。やわらかさを残った髪に、DIOも満足したらしい。くしゃくしゃと髪を撫でまわしながら、DIOは肉のうすい唇を承太郎へと重ねてきた。それを自然に受け入れつつ、承太郎はン、とどこか丸まった響きを落とす。DIOがそれを聞いて、喉の奥で笑ったのが伝わってくる。そのまま潜り込んできたDIOの舌に、承太郎はそっと自分のそれを絡めた。
ちゅく、と合間に落ちる水音に目元を赤く染めつつも、承太郎とDIOの唇が離れることはない。そのうち膝で立っていることにも限界が来たのか、一気に落ちた承太郎の腰を、DIOが抱き寄せた。
「…ふ、ぁ、DIO…」
やわらかさと愛おしさを混ぜこんで形にしたような声が、DIOの名を呼ぶ。射抜くように輝くエメラルドグリーンが、DIOの赤とぶつかって、険を失った。微かに色づいた目尻の紅をじっくりと堪能した後、DIOは改めて、瓶に目を留めた。
「もしや貴様、酔っているのか?」
「…まだ、酔ってねェ。一人で飲んだって、美味くもねーだろうが」
「ほう? そんな一人前の誘い文句を、一体どこで覚えてくるのやら…末恐ろしいぞ」
「……どこが誘い文句だ」
ハッ、と鼻で笑ってやろうとしたものの。DIOの手が脇腹からのラインを服越しになぞり始めたせいで、承太郎の反駁は最低限のものになった。
それ以上口を開いていれば、妙な声が出てしまいそうで。ふい、と目をそらした承太郎を咎めず、DIOは掌の動きを止めないまま、もう一方の手で器用に青色の瓶を引き寄せた。
「貴様にしては、中々に品の良い品じゃあないか」
楽しげに笑うDIOの手が、承太郎の腰から一瞬離れる。そうして、瓶の口を塞いでいたコルクをキュポン、と抜き取ってしまう。途端に広がった酒の香りに、承太郎も釣られて瓶の方へと視線を流した。
「…俺のオヤジが、昔…買ったモン、らしい。もっとも、てめえで買ったクセに…知り合いの酒屋に、押し付けて行きやがったんだとよ」
「ふむ。ちなみに貴様、フランス語には堪能か?」
「ああ? 興味ねー」
「罵声までうつくしいという、稀有な言語なのだがな…貴様の好む例の絵本も、原典はフランス語だぞ?」
「…っ、何で、てめえ、知って…!」
「貴様の母親に聞いた。部屋の隅でこっそり、飽きもせず読んでいたのだろう? まったく、その頃から少しも変わっていないと見える」
「……それより、さっさとソレ、よこせ」
どうせてめえは飲めないだろうが、と精一杯の皮肉を投げつければ、DIOの瞳がおや、という風にぱちりと瞬く。承太郎の記憶に間違いがなければ、血液以外を摂取しても何の味もしないし腹の足しにもならない、と。目の前の吸血鬼こそが、自分で宣言していたのではなかっただろうか。
そんな意図を込めてDIOを見返し、その手から瓶を奪ってしまってから。承太郎は行儀が悪いなと思いつつ、その瓶の口へ唇をつけた。
傾けた時に、勢いがつきすぎたのだろうか。予想より多く流れこんできた液体を受け止めきれず、口の端から青色がかった液体が滴っていく。
「なんとも、勿体ない飲み方をする奴だなァ」
呆れたように笑うDIOは、それでも瞳をぎらつかせて承太郎を見つめている。承太郎の肌を滴っていく酒に、ゆっくりとDIOが舌を伸ばした。ぺろり、と蛇のように長い舌を出して、DIOは丁寧に、少年の肌を濡らす液を舐めとっていく。その感触に承太郎がぅン、ともどかしげな声を出した。
それを聞き逃すDIOではない。承太郎の手から一旦瓶を奪うと、その青色をそっと床へと移動させた。
「…ぁ、まだ、途中だぜ…」
「貴様が煽るのが悪い。心配せずとも、あの酒は逃げんさ」
「…てめーそういや、さっきフランス語がどうとか、言ってた、よ、な…ッ」
DIOの指先は既に、承太郎の耳へと移っている。
承太郎が血を分け与えることで、DIOの身体とジョナサンの身体が馴染み始めているせいだろうか。その指は当時のDIOを思わせるかのように白く、そして器用だ。手入れをせずともけして荒れることのない指先は、承太郎の外耳を滑る。その動きは、少年の中で燻っていた快楽の火種に、あっという間に火を灯してしまった。
「そうだ、私としたことが、忘れるところだった。貴様の父親も、貴様と似たような感性の持ち主だったらしい、と…言ってやろうと、思っていたのだが」
「ァ、だから、何の…っ、ことだ…!」
「…『pantoufles de verre』、ようするに『ガラスの靴』というヤツだ。一瞬、貴様なりの愛の告白なのかと思ったが…残念だよ」
「…んっ、ゃめろ、DIO…、っソコ、は…」
もういい、と顔を背けようとする承太郎を深く抱き寄せながら、DIOは牙を見せて笑う。誘い込まれるように、承太郎は震えそうになる身体を叱咤しながら、再度深く口づけた。互いの口内に残る濃い酒の味に、くらり、と酩酊しそうになってしまう。
酒の量としては、一瓶まるごと飲んだって、承太郎が潰れることなどない。だが、目の前の男の存在が、承太郎の酔いを一気に加速させるのだ。
「『ガラスの靴』が引き寄せる、『運命の出会い』…陳腐だが、いかにもグッとくる言葉じゃあないか。大方、貴様の母親への贈り物にでもしようとして、必要なくなったのだろう。向こうから先にアプローチがあったのか、それとも他に何か理由ができたのか、そこまでは分からんがな」
離れた互いの唇の間を繋ぐ銀糸が、ふつりと切れたのをどこか寂しげな目で見つめていれば。どこか夢みるような調子で、DIOが口を開いた。
耳を触っていた時の性的な匂いを感じさせずに、承太郎の頬を撫でるその様子は穏やかだ。思わずその手に自分から摺り寄りながら、承太郎もぽつりと、言葉を零す。
「……なら、俺にも必要なかったぜ」
自分の『運命の出会い』は、もうとっくに終わってしまっている。一生で一度きりの出会いを、齢17にして果たしたと告げる少年に、DIOは掌の動きをぴたりと止めた。
「…承太郎」
いつかカイロで聞いたのとは違う、蜜のように甘く蕩けたその声音。聞く者をたちまちに虜とするだろう、優雅な調べ。そんな風に自分の名を紡がれて、承太郎の顔にさっと朱がのぼる。どれほど肌を重ねても、どれほど口づけを繰り返しても、未だに慣れることのない感覚。
「おいで、承太郎」
やさしいクセに容赦のない声色に、承太郎はゆっくりとシャツのボタンを外していく。たどたどしい手つきに目を細めているDIOの顔を見ていれば。承太郎の身体はあっという間に、火照りを覚えてしまうのだ。
「……っ、これで、いいか」
「ああ、勿論だ。貴様の躰は、何度抱いても飽きるということがない。抱き潰してしまわぬよう、私なりに気を回しているのだぞ」
「そう、かよ」
する、と伸びて来たDIOの手が、承太郎の腹筋をくすぐるように撫で上げながら、少しずつ胸元へと近づいていく。もどかしいその感覚に、承太郎が身じろぎするのを知っていての行動だから、本当に性質が悪い。そうは思うものの、指摘するのもはしたないような気がして、結局、承太郎はいつもDIOの手に翻弄されてしまうのだ。
「…あまり、可愛いことをしてくれるな。百年、止まっていた時計が…貴様のせいで、動き出しそうだ」
「……っ、ハ」
てめーのほうが、よっぽどロマンチストだぜ、と……笑ってやろうと思ったのに。DIOの手がとうとう、そうっと胸の尖りを摘まんだせいで。返したかった言葉はそのまま、艶やかな声に呑まれて消えた。
「てめえに選ばせてやるぜ。どっちがいい」
二人して転がったベッドの中で、承太郎がかすれた声を出す。
喉が渇いた、と訴える度に、DIOは口移しで酒を飲ませてきた。加えて、部屋の空気を湿らせるほどの、激しい運動。そのせいで酔いのまわった承太郎の意識は、かなり危うい所へ来てしまっていた。
だからこそ、承太郎は焦点の合っていない碧を濁らせて、それでも懸命に唇を動かす。
「いつか、俺が『靴』を残して消えるのと…てめえが『靴』を残して、消えるのと」
「……その選択には、意味がないな」
DIOは、しっとりと汗ばんだ承太郎の身体じゅう、優しいキスの雨を降らせながら笑った。
「答えは一つだ、承太郎。私は『靴』だけを残して、おまえを悲しませるほど不実ではないし…『靴』一つ残したくらいで、おまえを見逃がしてやるワケがない。だから、その問いかけには、答えられん」
まるで幼い頃、寝つけない夜に母が語ってくれたおとぎ話のような口ぶりだった。DIOの言葉と掌は、承太郎へ深い安心と眠気をもたらしてしまう。それに逆らえないまま、承太郎はとうとう、ゆっくりと瞼を閉じる。
「…おやすみ、おれの『サンドリヨン』」
DIOのからかうような呼びかけに、言い返すこともできなくて。
承太郎は、ふかく、ふかく。あたたかな眠りの淵へ、沈んでいった。