
ラヴハウリング・ノイズ(冴嶋)
目覚めの相場は決まって女の事切れる寸前の断末魔の悲鳴か感極まる嬌声か、どちらとも聞き分けられぬ酷く耳触りな声。
「片付けろ」
俺の意識が戻ったのが身震いで分かったのか、冷たい声が寝台から投げつけられる。床に放り出した身体はあちこちが痛んで、呼吸をするだけでも胸が軋みをあげて体内で喚き散らしていやがる。
下着すら纏うことを許されずにいる俺の身体は、手当をしようが治る暇もなく何時だって傷だらけで。
最早定位置となった吸血鬼の寝室の片隅で、冷たい床に寝転がっていた。
母親の身柄を押さえられ、仲間達と引き離され、カイロにあるDIOの館で一人―――こいつがふと気紛れを覚えた時には膝を地から離して歩くことも許されない、奴隷の様な暮らしをしている。
「聞こえなかったか?貴様に片付けろと言ったのだ」
平素であれば食事を兼ねた夜伽の後は、事切れた女を忠君であるヴァニラ・アイスが肩に、それがずた袋であっても変わらない、同じ生き物であったものとは思えない程の雑な扱いで運び出すのを知っている。
だが、今この部屋に己と吸血鬼の他に気配はない。
「承太郎、これを片付けろ」
歩み寄ってきたかと思えば、背を踏み付けられて繰り返される。息を吸おうとすればそれを叱るように圧が強くなって吸いかけた酸素がまた喉へと上り逃げていってしまう。
まだぼうとぼやける視界を天蓋へ、そこに横たわる『それ』へと、吸血鬼の食料である女の肢体へ目を向ける。徐々に焦点が合い、顔が分かり―――、
「て、めぇ……っ」
思わず身体の痛みなど忘れて足を跳ね退け起き上がる。しっかりとピントが合い、確信に変わった。
「勘違いするなよ承太郎。これは自ら望んだのだ。自らの足でこの館へ再び訪れ、このDIOの足を跨いで擦り付けてきたのだ。どうか今度こそ、自分の全てを吸い尽くして欲しいとな」
三日前に逃がした女が、目を見開いたまま、恍惚とした表情で仰向けにぐにゃりと事切れていた。
最早意識も理性も痛みもない手足は好き放題に捩れてシーツに皺の波を寄せている。
ああ、上体がマットの端からはみ出ているから唾液が顔を伝い目尻で涙と合流していて、無残だ。
「報われんなァ。お前はその女の為にこのDIOの靴の先を舐めてみせたというのに」
―――三日前、その屈辱。忘れる訳もない。
片付けろと命じられ、喰い散らかされた女二人を放っておくことも出来る訳もなく。寝台から引き上げて、地階へと下ろしてやったのだが、その内の一人はまだ息があった。
真っ青な顔をして息も絶え絶えだったが、生きていた。今思えば、そうして生かされたまま始末を命じたことすらこの吸血鬼の悪趣味な戯れのうちだったのだが、その時ただただ助けられるのならばと女に水を与え身体に巻くシーツを与え、虚ろな瞳に逃げろと告げたのだ。
「私はそれを片付けろと言った筈だが?」
そこに全て見ていて計った様に現れる館の主に、嵌められたと気付くも、もう遅い。
「貴様が女の為にこのDIOの靴へ口付けることが出来るというのであれば、ふむ。これから貴様がそれをどうしようと捨て置いてやる気になるかも知れんなァ。なんなら抱けばいい。貴様のと私のをそれの膣の中で掻き混ぜてやれ」
ああ何時だってこいつは歌うような声に残酷でおぞましい歌詞を乗せやがる。
「どうだ。知らぬ女の為に、この靴をしゃぶれるか?」
―――何を、分かり切ったことを。
自分が他人の命と己の矜持やプライドなど比べるまでもないと思っているのを分かっていてなお、そう問うてくる。
形を変え要求を変え、何度でも俺に自ら膝を折らせて愉しんでみせるのだ、この吸血鬼は。
そして俺もまた―――口での返事の代わりに石造りの床へと擦れと土で黒くなった膝を折る。
長く尖った意匠の金属靴はまるでアラジンに出てくる魔法のランプを思い出させるが、その口先を柔らかい咥内へと招き入れるのは本能的に恐れを抱かずにはいられない。
「……、ッ……、ぐ…――…っ」
四つ這いで身を屈め、磨き上げられた表面に映り込む自分の顔を凝視してしまう前に、革で出来ているのならば食い千切ってやると言わんばかりの力で靴先を噛む。
頭上から「行儀の悪い奴め」と嘲笑が降ってくるが、その声の至極楽しそうなことといったらない。
「…、ん、…っ、ぶ、…ぅぅ、…」
スプーンをがちりと噛んでしまった時の嫌悪を何倍に膨らませたたおぞましい悪寒。男根をしゃぶらされた時のように舌の腹を円錐に這わせていく。
このまま、蹴り飛ばす様にして喉奥を突かれれば己の喉など容易く破れてしまうだろう。口の中に広がる金属の生理的に催す嫌悪の味と腹の底から湧き出る想像への恐怖。またそれをやりかねない、この靴を履いた男の邪悪さ。
それでもぎらぎらと、殺意の輝きだけは失わずに睨み上げていれば、
「おや、これはこれは」と、通りかかるのはあの執事。慇懃無礼な男がクッ、と殺しきれない笑いを漏らすのが聞こえた。だが声の方向を確認することも出来ない。
俺は今、この吸血鬼に奉仕しているのだから。泳いだ視線に急に機嫌を損ねられて、喉を突き破られたら堪ったものではない。
心を硬く、身体も硬く強張らせて、殺せ、殺せ。
「甲斐甲斐しいだろう? 従順な飼い犬にはちゃんと褒美をやらんとな。明日の食事は豪勢にしてやれ。精のつく様にな」
それでも息の根を止めきれなかった理性が、砂の舞った地面を引っ掻きながらぎしぎしと拳を握った。
―――ああ今でもきっと、俺の爪にはあの時掻いた砂がまだ間に残っているだろう。
「そんな顔をするな。貴様がこれを片付ける前に嬲りたくなる」
三日前の恥辱の水面に顔を押し付けるのがこの男なら、頭を掴んで引き上げるのもこの男で。
こうしてこの吸血鬼は自分の心根が折れるのを今か今かと待ちながら、何度も何度も絶望の息継ぎをさせてくるのだ。
承太郎は悪態を返すでもなく、その女の亡骸から視線を外すことなく無残な肢体へと歩み寄る。
両腕でもう物となってしまったその身体をそれでも優しく抱き上げれば、ぺた、ぺた、じゃら、と裸足の左右の足とその間を繋ぐ鎖の引き摺る奴隷の足音をたててDIOの脇を抜け、部屋を後にする。
「――――ふむ」
力無い足取りに引き摺られる鎖の音が扉の向こうで遠ざかっていくのを愉しみながら。
DIOはまた一つ、余興を思い付いたとばかりに肉厚の舌で唇を湿らせた。
◇◆◇◆◇◆
この男の上機嫌な声は決まって悪い報せだ。
「今日はお前に晩の食事の目聞きをさせてやろう。一人で構わん、貴様が連れて来い承太郎」
その、自分以外の者が耳にすれば誰も彼もが蕩けるだろう低く心地の良い声で紡ぐ醜悪な命令に承太郎は耳を疑うと同時に、悪趣味さに昼間無理矢理腹に詰めた食事を吐きかけてやりたい気分に襲われた。
吸血鬼の食事。今晩その腕に抱きそして血を指の先から搾り取って殺されるであろう女を一人、あろうことか承太郎自身に見繕わせようとしている。
「どんな女がいいか、それは貴様が一番よく知っているだろう。どんな女を抱いて、喰い殺しているのか、飼い犬の様に地べたに這い蹲って見ている貴様ならば」
ああ、分かる。何時だって隙を突いてその首を己の祖先の身体と生き別れにさせてやれないものかと虎視眈眈と、床に伏せながら殺す気の眼圧で見ているのだから。
艶ある黒髪唇の厚く、締まり肉付きのいい女だ。
もう何夜も目の前で事切れるのを何度も何度も見てきた、見殺しにしてきた女は大抵がそうだった。
――――反吐が出そうだ。
「……いいのか、外へ出して。みすみす逃がすなんて間抜けになるかも知れねぇぜ」
「貴様は逃げんよ」
牽制してみればあっさりと確信を以て切り返される。その邪悪な両眼が物語る。逃げればどうなるか、聡いお前には分かるだろうと。
今、お前が考えているよりももっと、ずっと、おぞましいことが起きる。
お前自身にではなく、この町に。
だから、お前は逃げないと。
「下で服を用意させてある。他には……ああ、そうだ。この時計を貸してやろう」
沈黙を是と取ったのか、いや元より選択の余地など己には与えられてなどいない。自分は何時だってこの吸血鬼の気紛れの儘に弄ばれる他ないのだ。
上機嫌な吸血鬼はベッドサイドから何かを放り寄越す。足元の絨毯へ着地したそれは金色の丸い懐中時計、床に当たった衝撃で蓋の開いたそれは古めかしいが確かに時間を刻んでいる。
だが短針は承太郎の体感している時刻よりももっとずっと早い数字を指していた。
「合わせてはいない。時刻は分からずとも、時間は計れるだろう?」
おそらく高級品だろう、落ち着きある意匠金細工は繊細、それでいて金は鈍く深い色合いをしている。
「返すな。なんなら壊しても構わん。憂さ晴らしに踏み潰してもな。―――早く行け」
やたらと年代物なそれが、もしや百年前の、この化物がまだ人であった頃の物なのではないかと考えたところで急かされる。
暫く眺めているだけのそれを拾ったところで、吸血鬼の満足とも不満ともそのどちらとも取れぬ鼻での嘲笑いが聞こえた。
◇◆◇◆◇◆
じゃり、ざり、じゃりり、がり。
カイロの夜街。車の行き来の少ない裏通りを、足首に枷と鎖をつけた男が歩いている。
それでは走れぬだろう短さの両足の間の鎖が、男が踏み出す度に路面や石に擦れ砂埃が僅かに舞い上がるので、その元凶は何だと顔を向けた者は誰しも眉を顰めてみせた。
理由は男の身なりにある。
頭を包むターバンはぐるりと後ろ頭から側頭を垂れた布で隠し、それでいて鍛え上げられた上半身はうっすら痣やミミズ腫れが浮いており剥き出し。
下半身はたっぷりとした布量の下穿きだが、その足首はがっちりと堅固な足枷が嵌められているのだから。
時代錯誤も甚だしい出で立ちに、風変わりの乞食かと訝しむのは最初のうちだけ、男の前に回ればその誰もが息を呑む。
ターバンの下の彫りの深く整った顔立ちの美丈夫。正体は館から放たれた承太郎だ。
その異質さに道行く男達は、きっとこれは映画の撮影だろうと一人もそれを口にしないままに納得し、若い女達は奴隷姿の承太郎の全身から香る危うさ含んだ雄の色気にふらふらと引き寄せられていく。
「時代錯誤の奴隷さん、貴方は幾らで買えるのかしら?」
片手とぴったりの数の女が近寄り機を窺っていたが、そのうちの一人が声をかけたところで足を止めたその身体へと一斉に身を寄せた。
黒々と濃い睫毛の下の緑目がすいと女達の髪を一瞥していく。黒、焦げ茶、灰、黒、茶。
「……主人の今晩の相手を探している」
「まあ」
胸を押し付けてくる女に視線を投げる。ぽってりした真っ赤な唇、黒髪で睫毛は濃く目は垂れて。少し肌は浅黒いが若く引き締まり。
ああ、奴の好みだ。
「……あんたに頼みがある」
◇◆◇◆◇◆
しゃら、しゃらと鎖を引き摺る奴隷の足音。
それが今漸くこの寝室の前までやって来るのを、DIOは階下にいる時から耳で拾いベッドの上で待ち受けていた。
「おかえり、承太郎」
軋む音と共に扉が押し開かれるのと同時に主人は声をかけ、そこに与えた服を従順に纏った承太郎の姿を認め唇を愉悦に歪ませる。
「存外戻りが早いな。どれ、収穫を見せてみろ」
行きとは異なり頭どころか口許までも布で隠した奴隷支度の承太郎からまるで返事が無いが、それに気を悪くすることもない。
さあ、お前の目利きはどれ程のものか。
承太郎が無言で部屋に踏み入り、こちらへと歩み寄る。しかし、開いた扉の向こうからは―――いくら待ってみても女の影も形も出てきやしない。
「……そうか。そうかそうかっ、それが貴様の答えか承太郎!」
それまで上機嫌だった吸血鬼の表情がみるみるうちに目も唇も眉も何もかもが吊りあがっていく。
怒り混じりの高揚。機嫌良く弧を描く唇で唄いながら寝台から身を起こす。
「貴様の歩いた道筋にはしっかりと鎖の跡がついているだろうなァ。その跡を辿り使えぬ奴隷の通った道筋に沿って、その通りにある人間いる人間一人残らず殺してやろう。血の一滴たりとも搾り取ってやることもなく、ただただ無残に殺してやろう」
承太郎を嬲るのであればその身体よりも周りの人間を嬲ることが効果絶大であることを熟知している吸血鬼の、ある程度は予想通りの残酷口上。
しかし、それでも命令を跳ね付けた承太郎はいつもの様にその唯一見える双眸を絶句に見開こうとはしなかった。そのまま寝台へと近寄りDIOが起こした上体、肩へと手をかけ、シーツに片膝をつけて乗り上げる。
今更命乞いか? そう胸中鼻で嘲笑うDIOの目の前で承太郎はターバンを解き、口許を覆っていた布を吸血鬼の白い腹へと、はらりと落とす。
その布の裏側は、唇に触れていただろう部分は薄く紅が移っていた。
『―――、あんたのしているその口紅を貸してくれ。なんなら買い取る』
真っ赤な口紅に彩られた承太郎の柔らかく、小ぶりなその唇が、DIOの目の前で蝋燭の灯りに照らされて更に林檎のように艶めいていた。
ああ承太郎は確かに連れて来ていたのだ。黒く艶めいた髪、肉付き良く締まった身体の、女を一人。
「クッ、ふふ、ははははっ!予想以上だ」
吸血鬼が目を瞠ったのはほんの一瞬。たった今起き上がったばかりの寝床へ再び背中から身を投げ出し高らかに笑う。どことなく普段の邪気が抜けた、心からの笑い。
ひとしきり久々の感覚を堪能したその後、ベッドへ寝転がった生きた死体はじろりと視線だけ承太郎へ一瞥くれる。
「なら媚びてみせろ。私が好むのははしたなく、ふしだらで、喧しく啼く女だ」
その金眼が言っている。
来いと。ならば己から跨ってみせろと。
「無論、その位の覚悟は出来ているのだろう?」
自分よりも太く厚い彫刻じみた腰を跨ぐ。下穿き越しに感じる死体の冷たさ。この馬乗りの姿勢は吸血鬼の気に入りだ。何時だって女は跨って絡み付き腰を自ら振っていた。いつだって、見てきた。
「……DIO……、」
「おいおい、私のことを呼び捨てる女など母親を抜いてこの世にいるものか」
上向いてなお笑いだす吸血鬼。今、ナイフを突き立てたなら殺せるのではと頭に過ぎる程に白い喉を晒して、鳴らしてみせる。
「――……様…」
催促された通りの敬いを憎々しげに付け足せば、ゆっくりと首がこちらへと戻ってきた。
ああ、捕食者の眼だ。この赤い唇を、お前が血を啜った後の唇に似た色のこれを見て、まるで俺を眷族に追い落としてやったような高揚を覚えているのを、ぐにゃりと歪ませた金眼は隠そうともしない。
「私は今機嫌がいい。承太郎、今日はお前を女として扱ってやる」
今までの扱いは、正真正銘畜生の扱いだったのだと今この晩冷たい腕の中で思い知る。
深くまで貫かれているのに、まるで痛みを感じない程に、何時もなればお前のそこにしか用はないとばかりに割り開かれる肉壺を血でも精液でもなくしっかりと垂らされた蜜でふやかされ、それどころか全身を、とろとろとゆっくり時間をかけて開かれて。
ミシミシと間接のあげる悲鳴を聞き入りながら裂けるのではと思う程に割られていた股は、まるでこの日の為に女の骨の形にされていたのではないか。そんな気までしてくる程に優しく抱かれる。
こんな、これじゃあまるで、
「愛し合っているみたいだ、か?」
「――ぁ、ア、あぁ、はぁ、うっぁ」
何時もなら最早与えられ慣れた痛みだって唇を噛み千切ってでも堪えられた筈の声も、全て全て閉じれない真っ赤な唇から唾液と共に溢れてしまう。
「それはな承太郎。お前は今、女だからだ。女の自覚があるからこうして、ほら」
「ヒッ…あ、あっ、ぁっアッ、ア、あ、あ…っ!」
突かれる度、中を抉られる度に全身が、身体中の肌という肌が、ふつふつと鳥肌を立てたかと思うと末端から赤く染まっていく。
おかしい。おかしい。
今まで、どれだけ殴られようが犯され様が感じなかった恐怖が、あまい恐怖が快感と共に襲ってくる。
こんな俺は知らない。こんなの俺じゃない。
これならまだ、酷く殴られて打ち捨てられる方が何倍もましだ。
奥を突かれるときもちいい。浅く掻き回されてもきちいい。傷みだけを与えられる程に知り尽くされた肉壁はここが好きだろうと抉られる度に従順に悦びうねって締め付けてしまう。
早く終われ。早く早く早く。
「かはっ、ぁ、ぁあっ、あ」
俺が、造り変えられてしまう―――
「ああ、なんなら今なら殺せるかも知れんぞ。ほら、承太郎」
こいつが何を言っているのか、自分の女みたいな喘ぎがうるさくて半分も聞こえない。
縊り殺してみせろと手首を掴まれ癒えかかった傷跡へ導かれた両手は、一気に再奥まで突き上げられて悲鳴と共に堪らず太いその首周りへとしがみついてしまう。
感じ入り過ぎて涙でぼやけた視界ではDIOが今どんな表情で己を見ているのかさえ。寄せられてくる顔は、首筋に埋まり肌を湿らすように吐息をかけられて。
「ああ、お前の快楽で沸騰した血もなかなか悪くない」
鋭い刺激が走って頭が真っ白に弾ける。
星の痣へと突き立てられた牙さえ甘く感じてしまうなんて、嘘だ。
◇◆◇◆◇◆
行為が終わってもベッドから蹴り落とされないのは初めてのことだ。初めて犯されるのではなく抱かれて達した身体はしばらく指の一つも動かすことが出来なかったが―――漸く熱が冷え、そして醒めた理性と、屈辱が戻って来る。
肘を立て顔を覗き込みながらもう一方の手で髪を撫で梳いているのが分かって、ごろりと背を向けてやれば、クツクツと喉で笑うのが聞こえた。
「ああ、いい事を思い付いた。このベッドのすぐ脇にナイフを置いてやろう。私の精も魂も搾り尽くして寝首を掻けばいい。己の処女と引き換えに侵略者の首を落としたユディトの様に」
まるで睦言を紡ぐような声音で血生臭い口説き文句を述べる。聖書の人物を引き合いに出すところが鼻について仕方ない。
吸血鬼の癖に。化物の癖に。
「私を殺す為に、私を愉しませろよ。そうしたらこの首くれてやっても構わん」
無視を決め込んでいれば、項に冷たい唇が口付け幼子へ子守唄に似た甘い毒を垂らす。
「もっといい方法もあるぞ。お前がこのDIOの女になるのなら、上手くお強請りを覚えてみせれば母親も助けてやろう。何でも、望む物の為にこのDIOの機嫌をその身体で取るといい」
承太郎はその下劣を含む哀れみと情けに返事をしないままに、髪を擽る手を払うこともせず寝台から起き上がる。
傷だらけの身体は昨日に限っては爪痕の一つも増えてはいない。女にされる悦びを知った身体、未だ掻き出しもしていない秘部からは歩かずとも精液が腿を伝っている。
その雫の軌跡をDIOがじっとりと鑑賞する視線に絡み付かれながらも背を向け毛足の長い絨毯を踏み、一歩二歩離れ、漸く口を開いた。
「…………何か、勘違いしてねぇか。てめーは」
啼き過ぎて涸れた喉から出る声は乾ききり、吸血鬼の誘いにも少しも湿ることはない。
「俺はてめぇに取り入る為に此処にいるんじゃあねぇ。俺は―――てめぇを殺す為に此処にいる」
その答えに、吸血鬼が浮かべていた穏やかな微笑は一度ぱちぱちと瞬きし――袖にする理由が理解できぬとばかりに呆気にとられた後、みるみるうちに余裕の皮が剥がれ落ち金眼は侮蔑に満ちていく。
「……フン」
先程まで室内に篭もっていた筈の毒々しい甘さが息苦しく冷えた空気により地べたへと押し潰される。
冗談も通じぬつまらぬ男よ、と舌打ちが背に一つ。
「人間は心変わりする生き物だ。いつでも女になりたければ言うといい。尤も、それが許されるのもあと何十日も無いがなァ」
折れぬのなら殺すまで。
常の調子を取り戻した傲慢な声はそれだけ告げると、もう興味を失くしたとばかりに寝返りを打ちこちらへと背を向けた。
その気配を感じて漸く、承太郎は半ば崩れ落つように冷たい絨毯すら敷かれていないいつもの寝床に身を横たえる。
もう身体が慣れてしまった冷たい床の感触に、情事の疲労で泥の中をもがくような身体はあっという間に意識を手放していく。
それでいい。俺とこの化物の間にそんな、情などあって堪るか。生まれて堪るか。
全てが遠退ききるその寸前、ふわりと。
閉め切った部屋の中で髪が擽られたのは。隙間風のせい。強情な奴め、と聞こえたのはいつか殴られた時からずっと止まらない耳鳴りのせい。
そうして、いつか必ず殺す男の気紛れも情も何もかも、俺は聞こえないことにした。
FIN