
近距離型アイミスユー
鼻に当たりそうなほど近く、ずい、と突き付けられた物体をまじまじと見つめる。鋭利な先端が目の前にある。いよいよ目を潰す気なのかと思った。喧嘩は茶飯事だったがその時はそこまで怒らせたのかと少し、本当にちょっぴりとだが怯みつつ、それを表には出さず。好きにすればいい、どうせすぐに再生すると斜に構え、挑発してやった。そうしたら小突かれた。目ん玉じゃあなく、額を、こつん。
「てめー仕様にあつらえた。こいつがあれば行けるだろ」
どこでも。どこへでも。
仕切り直され、今度はそっと差し出される柄。軽く握ると、この大きな手のひらにもぴったりと合った。
平日午後の喫茶店。花京院は既にデザートまで食べ終えて最後のコーヒーを味わっている。連れの承太郎は食事に消極的だった。ランチセットのメインであるハンバーグどころか、付け合わせのスープにも手を付けていない。元々何かを注文する気はなかったところを花京院の強い勧めによって半ば強制的に選んだ経緯があった。結局こうして放置されている。
「すまないが見当も付かない。いや、付けられないな」
暫しの熟考を終えて花京院は、そういう答えを出してきた。
「行き先も、何を考えているのかも、ぼくには……かといって監視が目を光らせている中で行く当てがあるとも思えないが……そして、たしかにハイエロファントは潜む者や逃げる者に強い。索敵は得意だ……けれど捜索となると難しい。それはジョースターさんの分野になる」
でもそっちも駄目だったのかと言いたげに窺う花京院へ承太郎が頷く。
「じじいの力でもはっきりとは映らねえ」
断片的な映像。ひとつひとつでは意味をなさない言葉。テレビの画面に描かれた後ろ姿は頑なに振り向かず、流れる継ぎ接ぎの音声を脳内で繋げようにも雑音がひどく、上手く聞き取れない。分かったことといえば己を追う者に対する強い拒絶ぐらいだ。「監視があると言ったがそのスピードワゴン財団でも足取りは掴めねえ」と静かに零し、承太郎は手元の水をあおる。花京院がいる手前昼間からのビールは避けたのか、あるいは今飲めば余計なことまで吐露しそうだと思ったからか。水分を求めるのは、汗をかいているからなのか。いつもと変わらぬ表情の下、焦燥を滲ませているというのか。そしてそれに花京院は気付いているのか、いないのか。戦友であるはずの二人ともが感情を内に秘めている。
「暗号めいた文字や映像の羅列……拒んでいる、自分の意思で」
情報を、承太郎が多く語らなくとも、花京院もまた同じ結論へと辿り着く。追ってくるな、という強い意思を感じている。それでも承太郎は追うのだろう、ということも、花京院は分かっている。
「自分の足で探すしかない、と考えているのか? 世界中を? ひとりで?」
「そのつもりだ。世界を相手にするのも経験済みだからな」
花京院が息を吐く。
それは、どちらの世界のことだ?
そんな思いが込められた嘆息だ。
「君がぼくを訪ねた理由、なるほど、人探しじゃあなく最初からそれを頼む気でいましたね?」
ここで待ち構えろと。灯台もと暗し、追手の裏をかいてふたたび戻ってきた時のための網として。
「それもあるが。てめぇも巻き込まれる可能性があるから用心しろってことだ」
「見くびらないでくれないか。話を聞いたからにはぼくだって野放しにする気はない」
だがそれは別に強いられているからじゃあない、巻き込まれたんじゃあない、いつだって自分がしたいことをしている。響く花京院の声は硬かった。
「協力する。君がするなと言ってもだ……しかし、いずれこうなるのだったらあの時の、君の選択は」
そんな硬質な声は不意に途切れる。花京院はハッと息を飲んでいた。気付いたのだ、自分を見つめる承太郎の真っ直ぐな眼差しに。承太郎の目は、海の色をたゆたわせている。薄いグリーンに浮かぶ、大海のように深く強い心。責められても逃げはしないで受け止める、だけど過去の選択を悔やまない。花京院はゆるく頭を振った。長い前髪が揺れる様は、花京院が抱いた後悔の深さを物語っている。
「ごめん」
「違うぜ。おめーには言う権利があるんだ。おれの独断は十分責められるべきものだぜ」
とん、と小箱を指で叩き呼び出した煙草、慣れた様子で咥える承太郎は肩を上下させて軽く笑う。野良犬や野良猫を追い払うように片手を振って花京院の沈んだ謝罪を払う。投げやりでおざなりな態度は花京院の真剣さとは反対のもの。わざとだ。仲間を気遣う男である花京院が心を痛めることのないように承太郎は軽薄を演じている。似合うわけがないのに。当然分からない花京院ではなかった。だから、責められたがっている承太郎の意にも沿わない。
「さっきは見くびるなと言ったけれど、すまない、やはりぼくはそんな聖人じゃあない。権利なんか関係ないんだ。これでも毎日寝る前に考えているんだから。あの決着について、今生きている実感と一緒に……まだ結論は出ないが、やはり許せないと思ったらもう一度挑みに行くだろう。他でもない自分のために……だから、あの日から今日まで戦いに向かわなかったのは、承太郎、君への遠慮ではない。ぼく自身の意思だ」
ほぼ無意識にか、腹部を擦っていた花京院はその手をふと止めて、「でもね」と背筋を伸ばす。
「さっきのぼくはそうじゃあなかった。責める責めないの話じゃあなくて、もっと感情的で、ガキだった。なんにも考えないまま衝動に任せて君に嫌味を言ったんだ……多分、ぼくは悔しいんだよ。その……友達を取られたようでさ」
承太郎は目を見張った。さっきと違い、若葉が風に揺れるような色合いの瞳。少し、歳相応に見える表情。完全無欠なようでいて意外と見せる隙がある。一方、本当に子供だ、と自分の言動を反省している花京院だけれど。そんなことを思えるようになったのは、そしてそんなことを面と向かって承太郎へ言えるようになったのは、この花京院典明という少年にとって大きな変化だ。それはきっと良い兆候なのだろう。が、承太郎は学帽を下げた。取った取られたの話でもねえだろ……、とぶっきらぼうに呟けば、花京院が今日、初めて笑う。
「これがなかなか、寂しいものなんだ。友の隣に誰かがいて、その誰かをいつも見つめている、と、いうのは」
口角を上げるべきかそれとも唇をへの字にするべきか、迷った結果、半端に歪んだ口元を隠し、承太郎は煙草の火をもみ消した。
「こちらは任せろ。戻ってきたら雁字搦めにしてやる」
「悪いな」
「こういう時はありがとうと言うべきだ。あ。あと、それ」
花京院がハンバーグを指さす。
「残すなよ」
「腹は減って」
「君は、食べなければならない」
ターゲットを皿から承太郎へと移す指。承太郎の胸を、心臓を目掛けて刺さる。鼓動を鼓舞するように。もっと力強く脈打つんだと、と。
「知っていたのか」
「なんとなく、だがね」
「ああおれ達は親友だから、な」
「承太郎ッ」
「分かったぜ、花京院……いただきます」
顔の血色を良くする花京院へ、承太郎もやっと笑った。友に叱られたからには仕方ねえ、と、いつもの口癖をも封印して素直にフォークとナイフを握る。
英気を養った翌日、日本を発った。
待ち合わせ場所として指定されたホテルはカイロの中でも一流だ。交通の便も悪くなく、治安も良い。それほどの価値があるのならコネがなければまともには入れまい、全てはジョセフ・ジョースターの名と財と、そして身内への配慮が為すものだったろう。ジョセフは常に疑っている。誰よりも懐疑的で、もしかしたら生涯に渡り、警戒し続けるのかもしれない。街には負の遺産が、スタンド使いが潜んでいるのだとしたら。戦いと因縁のある一族にとって用心に越したことはなく、だからこそ知己を頼り、自分に代わる目として、この地に留まってもらっている。一度は旅を共にしながらも散らばった戦士達にはそういう経緯があった。
人目の多い有名ホテル、ラウンジにもゆったりとした時間が流れている。金など掃いて捨てるほどに余りある、富裕層の者達にはそれが日常の、朝のひととき。ビジネスで訪れているのだろうスーツの男やいかにもな金持ちのエジプシャンといった輩が朝食を摂っている中、大柄な男が二人、対面を果たす。一人はエジプトを故郷とする男、伝統的にしてもいささか派手な民族衣装は目立っていたがさすが母国だけあって馴染んでいる。というか、それに輪をかけて浮いているもう一人がいるおかげだ。承太郎の黒く長いコートのような学生服は珍し過ぎた。他にも服の奇異だけでなく、恵まれた体格と、雄々しいながらも無駄な枷のないすらりとした立ち姿は人の目をよく惹く。そこのところは日本でもエジプトでも、異性にしろ同性にしろ、変わりはない。己が身ひとつで数多の人間を動かせるのなら、承太郎とてラインを越える可能性はあるはずだった。人間を超越するための線上に立っているのならあと一押しがあれば容易く傾くだろう。もっとも、今はまだ承太郎自身にその気など皆無だから、大抵の人間は気後れするか、逆に触れようとしてすげなく弾かれるのが普通だ。
アヴドゥルは、違う。大抵には入らない。無言のままに交わした握手は固く、強い。アヴドゥルは承太郎の肩を叩き、承太郎は辛うじてそうと分かる程度、その顔に喜びを描く。それだけで十分だというように身を離し、それ以上の何かを必要としない。再会の抱擁と言うには呆気ない。込められた二人の思いも、はっきりとは浮かび上がらない。だが二人にとってはそれでいいのだろう。絆などという、形なき不確かなものがあると、信じ合っているのなら、それで。しかし、
「あいつらも元気か」
現在カイロに身を置いている星屑の十字軍は、アヴドゥルだけではない、はずなのだが。
「イギーは外で昼寝をしている。ここカイロをすっかり気に入っているようでわたしとしては嬉しい限りだ」
「気に入っているのはカイロ、じゃあねえだろうぜ」
アヴドゥルとポルナレフが日本に来ればイギーも自ずとついてくる、空条家の縁側で寝ているはずだ、と承太郎が微笑を洩らせばアヴドゥルははにかみ照れを見せる。「だとしたらもっと嬉しいな」と頬をかき、それから少し、表情には影が落ちた。理由は明白、ここにいないその、ポルナレフについてだろう。
「ポルナレフのやつは、あぁ、うむ……彼は」
今日は気分が優れないらしい。腹が痛いとかで。だから会えない、と。とか何とか、アヴドゥルが言いよどみ、口ごもる。あいかわらず嘘の下手な男だがその嘘どころか、アヴドゥルの抱く伝えたい思いまで見抜いて、承太郎は懐かしいエジプトの香りに包まれながら、きっと思い出しているだろう。ちょうど一年ほど前に見た、戦友の激しい剣幕を。掴まれた胸倉、震える拳、殴られた頬の痛みを。いっそ見事なほど綺麗に入ったその一発よりも胸に響いた怒声の方がよっぽど痛かったことを。
「久し振りなのに……あいつも頑固だからな……すまん」
「いーや、ソクサイならいい。それに、現実こんな事態になっちまっている。折れる必要なんざねえんだ。花京院もポルナレフも。おめーもだぜアヴドゥル」
笑みの質を僅かに変えた承太郎にアヴドゥルはなお何か言いかけたが、言葉での慰めやフォローなどに意味はないと思い直したか、話を次へと進めた。つまり本題へと入る。
「報せを受けてから厳重に警戒し身構えているが、ここには何の音沙汰もない」
今も健在の、根城であったあの館も静かなもの。服役中や軟禁状態にある盲信的な配下達が活気づいた気配もない。エジプトの夜はいつも通り明るくて賑やかだ。アヴドゥルが語ることに血生臭さはなく、その平和さをひとつ聞く度に承太郎の体からは力が抜けていった。ほ、と吐く息は紛れもない安堵の証だった。知らず溜め込んでいた緊張感が少しずつ溶けて、強張りも解けていく承太郎と合わせるように、アヴドゥルも柔らかく笑う。まさしくこの場にいないジョセフに代わって、十代の少年を、その多感な心を、見守っている。
「よかったな」
承太郎の肩が揺れた。何でもない風を装いたかったのだろうが、感情は理性の手綱を振り切った。花京院の時といい、友の前ではポーカーフェイスも形無しとなっていた。目が、アヴドゥルに問いかけている。よかった、ああ、事件やトラブル、血が流れていないことはよかったとも。でもそれは、どこにかかっている「よかった」なのか。
誰も傷付いていなくてよかった。
誰も傷付けていなくてよかった。
アヴドゥルがどちらの意味で言ったのか、よりも、自分はどちらで安心をしたのだろうと、睫で蓋をして、自身の心と向き合おうとする承太郎に苦笑して、アヴドゥルは懐からタロットを取り出した。閉じかけていた目蓋へ見せるのはもちろん十七番目のカード、スター。
「答えは己の内にある、さ」
「占いは信じない」
それを本業としている男を前にしてきっぱり言う。けれど、
「でもアヴドゥルは信じている……から、聞かせてほしいぜ」
承太郎の手が、年季の入った古いタロットに触れる。星は既に抜かれてアヴドゥルのもう片手の中。ならば承太郎が引き寄せて引くカードは、
「二十一番、目」
描かれた絵と記された文字、そこに宿る意味、確かめて、カードをひっくり返してアヴドゥルにも見せる承太郎は、自分よりも背の低いアヴドゥルを、一瞬、まるで見上げるような目で見つめていた。たとえ一瞬でも、心許なさを滲ませたのだ。これを選ぶだろうということは何となくだが予感していた、だけどこうしてあらためて形として見せつけられればどうしても戸惑う、そんな顔だった。
「スタンドは」
アヴドゥルは選ばれたカード、承太郎にとってのジョーカーを束に戻しながら切り出す。
「スタンドとは精神エネルギー。人の心は多種多様。だから血縁の濃さで似ることはあっても全く同じというのは、わたしも聞いた覚えはなかった。それでも、お前とやつは同一で……そうでありながら、対だ。ああそうだ、たとえ能力が同じでも、わたし達ははっきり言える。承太郎は、やつとは違う」
「だから戦った。だから」
本当は決着をつけるべきだった、と、生と死を口にしかける承太郎をアヴドゥルは制する。
「お前達は、違う。だがそれは対立するという意味ではないんだ」
あの戦いから一年。この一年を振り返って、どうだ。何を感じてきたのか。悔恨の毎日だったのか。そうじゃあないだろう。
「一日一回は、衝突していたぜ」
毒のきいた舌戦。それで治まらなければ互いの気が済むまで殴り殴られ。精も根も尽きた時には靄も晴れている。
「絆創膏やら包帯の減りは早いし家ん中は喧しい。それが日常になっていた……毎日を鬱陶しく思ったことはなかった」
世界は完成されていた。はずだった。
「やつは……完璧であったからこそ絶望し、蹲っている。承太郎は未来への道を拓きながら足が重くなっている」
「足の引っ張り合いだな」
「そういうことでもないぞ承太郎。自覚と自信を持つことだ……ほら、いつものふてぶてしいお前はどこへやったんだ。うぬぼれろ若人よ。こいつを倒せる者は他にいるかもしれないが救えるのはおれなんだ、ぐらい思ってやれ」
また、力強く、ばんと肩を叩くアヴドゥルに「おめーだってまだ若い」と唸る承太郎はそうすることで友のくれた言葉を噛み締めている。
ホテルを後にし、どこへ行く。路上に出て、空を仰げばそこには曇天がいっぱいに広がって、日差しは弱い。太陽がいるだろう位置に手をかざし、じっとしていた承太郎がやっと動き出す。客を待つタクシーを見回して移動のための足を探し始めた承太郎に何かが投げつけられる。後頭部に迫る煌めき。振り向くことなく片手で掴み取ってから、飛んできた方向へ。スローモーションで視線を向ける。壁に寄り掛かり、腕を組み、不自然なぐらいに首を背け、余所を向いている男が投げつけたのには間違いない。だが男は承太郎を見ようとしない。承太郎の耳に届くのはぶっきらぼうなフランス語訛り。
「clef」
「おう」
「貸してやる」
「おう」
「ブッ壊してもいいが引きずってでも必ず返しに来いよ」
「……おう」
「二ケツはしてやらねえ」
ひゅ、と風を切って素早く、指だけが動いて指し示す、大型バイクの座席。承太郎は懐かしそうに目を細める。何を、いつを思い出しているのか、すぐに分かる。
「その席は空けておかなきゃあならねえ、そこにふん縛ってでも連れ戻すんだ、おめーは」
「ポルナレフ」
「いーか? こいつは貸すが! まだ、おれ達の仲直ってねぇからな承太郎」
これ以上ないほどに首を曲げて絶対に振り向かないという態度でポルナレフは最後に付け加えた。
「おれは納得しちゃあいねえ。でも、貸してやる……おれの故郷は、そーいう国だからな」
抑えようとしても消し切れない甘いアムールの香りをそれでも隠しながら、手を振って、追い払う仕草。
「早く行けよ」
ポルナレフのそんな頑なさが、今の承太郎には心地好かったのだろう。ひょっとすると、励まされ、背中を押された気がしたのかもしれない。ぶつかり合っても、友は友。相手を思う心に嘘はなく。承太郎はポルナレフに応えた。
「かっ飛ばしてすぐに返すぜ。無傷でな」
先にポルナレフが言った条件へ黙って頷くのではなく、自分の言葉で返して、バイクに跨る。ポルナレフも負けていない。これも見送りじゃあないと言いたげに、やはり首は動かさないまま、だけどまだ留まっている。承太郎が次へ向かうまでそっぽを見せ続けるのだ。捻くれた愛の男のその足元、傍らに寝そべる犬は片耳をぴくりと動かし、薄目を開ける。鼻先がひくつき、辺りを見渡す。とある一点で止まり、目を見開き、また半眼に戻り、そしてまた寝る体勢に入る。なるほど犬は敏い。
エンジンが掛かり承太郎の脚が地面を離れた。轟音に負けない声で最後、ポルナレフは呼びかけた。割れたハートの耳飾りが揺れる。
「承太郎!」
どこへ行く?
「そうだな……最後は」
初心に返って始まりの場所にでも。
宣言通りにフルスロットル、かっ飛ばして、承太郎は進む。残されたタクシーの運転手がターゲットを逃したことに舌打ちした。
始まりの場所。元始の青。生命を産み育んだ温かな母の胎内。だが一度陸に上がった者にとってはどうだろう。特に、人間という生き物の体は脆く貧弱だ。夜の海は冷える。今晩は月明かりもおぼろげで海は暗く黒く、潮気を含んだ風は強かった。砂浜に佇む承太郎の足元に、砂が踊っている。学生服をなびかせる後ろ姿は強風にも揺るがない。寒さに震えることもない。背中で語って見せる、変わらない意思、変えない、変えられない意志。波打ち際で寄せては返す小波を肴に、吸っていた煙草を口から離した時。その瞬間。ほんの一瞬のうちに。承太郎は消えていた。
「どんな気分だ」
真後ろから聞こえる声と息遣い、すっかり聞き慣れてしまった鼓動。
「つけ回すってぇのは……家出した少年が、だが本当は見つけてほしくてたまらねえ……と思う心理に近いんじゃあねえか」
それは案外、当たっていそうだ。
思わず笑いながらわたしは振り向いた。
一度、聞いてみたいことがある。ディオ・ブランドーがDIOとして一歩を踏み出した場所も、こんな夜のこんな浜だったのだろうか。カイロからここまで決して短くない距離があった。夜のあいだに着けたのはポルナレフの、向き合う覚悟を持ったのはアヴドゥルの、時々ふらつく情けない足でもここまで来られたのは花京院のおかげだ。みんなの世話になりっぱなしで、こうなったら何が何でもここで決着をつけなきゃあ帰れねえぜ。
「わたしの後ろを取るとは完璧じゃあないか、貴様のザ・ワールドも」
笑ってやがる。腹の中、怒りの熱が一気に燃え上がった。この男一人のために一体どれほどの者が不眠不休を続けたか。怪我人こそ出なかったが払ったものは大きいだろう。おれの出席日数もそのひとつだ。この一年、結構頑張ったんだぜ。それをこいつは。むしろそうなることこそがこいつの、DIOの狙いだったのか。
「いつから気付いていた」
鼓膜を無視して脳みそを直に撫でてくる低音。たった数日振りでも何だかどうして懐かしい。DIOが羽織っているコートがたなびく。学ランと同じくらいに長いそれは、道化師のようなDIOの格好を上手い具合に隠している。これなら外を出歩いても人混みが割れるようなことはない。いや、片手に持っている物は今の気候と時間に合っていないような気もするが、そもそもそれ以前に、吸血鬼が隠れ潜もうと思ったら気配を完全に消して、そこにいるのに誰も気付かない者になれるはずだ。みんな知らない気付かない。おれも同じ。そう、いつからかと言えば、ついさっきだ。DIOの存在を捉え、DIOを捕えたのは。
「てめぇを感じねえ。もう大分馴染んでいるんじゃあねえか」
DIOから笑みが消える。DIOは空いている方の手で喉元をさする。本来ならおれはDIOを感じられる。離れていても、ああ居るなと分かるし、目視できる距離にいたらまず気付く。それがどうだ。一年間で、肉体同士の繋がりがかなり薄くなっている。DIOは今、DIOになりつつあるということだ。奪ったものを自分と同化させて、首の傷痕も星の痣も因縁からも解き放たれて、ただの吸血鬼ディオへ、戻る。
「おれの献血も無駄じゃあなかったようだな……じじいに比べれば薄くても」
「勝手に決めるな」
ぴしゃりと一刀両断だ。てっきり、調子に乗るなという意味で言われたと思ったんだが。DIOはこれ見よがしに眉間にしわを寄せてみせた。見ろこのDIOを明らかに苛立ち怒っているぞアピール、といったところか。
「不味ければ貴様の血だけで一年も過ごせるものかよ」
ただでさえ面倒な野郎を怒らせている、というのに、嬉しいなんて思うのはどうなんだ。でも、思ってしまうのはしょうがねえ。ああ仕方ねえだろう、こんなの、DIOには珍しいんだ。いつもねちっこい語り口調のDIOが投げた、ド真ん中、心臓狙いの直球。血にかこつけてはいるけれど、こういうことは伝わってくる。この一年、おれとの一年をDIOも色々考えながら過ごしてきたんだと分かる。貧血が持病になった甲斐もあるってやつだ。
「わたしの左半身もついに馴染んだから、だからわたしにとって貴様はもう必要ではないと考えるのか? だから、あんなことを言ってわたしから……もう、気は変わらんのか」
「てめぇも知っての通り。おれはこうと決めたらやる」
DIOの肩が震えた。傍にザ・ワールドの像が現れて、風が変わる。もし木の葉でも舞っていたら、ぼっと爆ぜて燃えていただろう本気の怒りだ。
「貴様のままごとに付き合うために生きているんじゃあない……そんなことのために、お前の頼みを聞いてやったわけじゃあない」
そうだな、DIOは、何もおれに敗北したから今日まで大人しくしていたわけじゃあない。頼んだという言い方は気に食わないが、おれが望んだのは確かだ。スタンドごと体を割られてもまだ生き延びようと脈動を響かせていたDIOを見下ろしながら、ひとしずく、自分の血を滴らせたのは、憐れんだから、殺しに躊躇ったから、償いをさせるから、と、理由なんざいくらでもつくれたが、一番しっくりくるのは、DIOという男に興味があったからだ。出会って一時間にも満たないのに、と思ったんだ。知りもしないまま殺し切ることができなかった。今にして思うとそれは弱みだった。頭に、惚れた、が付くタイプの。
DIOは、どうだったのだろう。監視が付く軟禁を受け入れたDIOの、その心はおれをどんな風に映していたのか。監視といっても、ザ・ワールドに対抗できるのはおれだけで、おれが目を光らすことは必須だった。連れて来られた空条の家、見上げて「ベッドはないのか」と小さく呟いたDIOを見た時、ちょっと、楽しみに感じたんだ。これからのDIOとの生活を。
DIO、ままごととは言い得て妙だ。お前と暮らしたたった一年は、百年続いた凄惨な歴史の上でするごっこ遊びだった。でも、やっぱり楽しかったんだ。だからおれも腹を決めたんだぜ。
「そんなこととか言うな……大事なことだ」
「大事! それほどに大事か? 進学することが……陽の下を歩くことがッ! おれを置き去りに、し」
衝突する度DIOには、熱しやすい性質だと揶揄され続けてきた。だがDIOだって激情家だ。だから喧しい口を物理で塞ぐ。肉体的には非力な人間を殺さないよう手加減している吸血鬼相手ならおれの方が強いわけだ。もう少し砕いて言えば襟首ひっ掴んでおれからキスするのも難しくないってことだ。
「てめぇとは終わらねえ。このままてめぇの言うままごとを続けるつもりもねえ」
大学行って学身に付けて、真っ当な大人になる。自分の職で食っていく。マジに生きていく。DIOと、今より先を。てめぇを探して歩いたここ数日でいっそう強く決めたんだ。
「あ……貴様今、なにを」
「そのために、そいつを贈ったんだぜ」
「承太郎、おまえ」
長話していたら人の気配が近付いてきた。ほうけているDIOは期待できねえからおれが時を止めてもよかったんだが、せっかくだから開かせる。DIOの手を撫でてから、その手が握っている柄の小さな出っ張りをちょいと押し込めば開く闇色。
「これがありゃあどこへでも行けると言っただろうが」
今日、そうしたように。おれがどこに行こうとついてくるだろう、お前なら。
外の世界を断つ蝙蝠傘の中に隠れてあともう一回。と、おれがするよりも速く。DIOに舌を入れられた。
[end]