
亡き夫に捧ぐ七つのヴェール
私はあの時確かに、奴の種をこの腹に植え付けられてしまったのです。
からりと乾いた砂国の夜は冷え込む。
塔屋の最上階。寝心地にも最早慣れた棺の蓋の上に腰掛ければ硬さを伴う冷たさが纏った布越しでも伝わる。
静かな夜だった。人間の尺度で計ればそれは誰もが寝静まり、息を潜める静かな夜だった。
だが―――この塔屋の主にとってはそれでも酷く耳触りで、寝つけやしない夜だった。
片手を棺へ、閉め切った室内にもどこからか入り込んでくる粒子細やかな砂がうっすらを被ったレリーフを幾分爪を伸ばして丁寧に鑢かけたその指でなぞる。
もう見慣れた細工だ。その中心に象られた文字をすいとなぞれば指の腹と爪に砂が纏わりつく。
そしてもう片方は、途中の頁に指を挟み込んでいたノートを手中で広げ直した。
捲ればまずインクを、そして鋭敏な鼻には遅れて己が好んで飲む赤と血潮の混じった匂いを感じた。
視線を紙面に落とす。
「昨日の続きだ」
もう何度も読み返しては暗唱することも出来るだろうそれを再び口にしていく。
聞いている者などいない。
此処には己一人、この館には最早生きている者も死んでいる者も己一人しかいない。
吸血鬼、DIOの手記。
十四の言葉。帝王然とした姿からは想像つかぬ一面。
友や信奉者からしたらこの書き付けた日記はそれこそ――聖書と言っても差支えがないのかもしれない。
こんな、母親や父親へのコンプレックスも隠しもせず、何度も何度も十四の言葉を書き付けた、これがだ。
そう思うとこみ上げる笑いがついつい殺しきれず、口許に薄い笑みを湛えたまま――まるで並べ立てたそれの一節を復唱するように、男は低く耳触りの良い声でそこにある文字を声に変換していく。
まだ人間であった頃の葛藤。父、母、ジョナサンへの。迫り来る宿敵の伝え聞いた書き付け。味方の失態。とりとめもない思考遊び。
いたく人間じみた内容は男の、女の腰を砕くのも容易いとばかりの低く響く声音で紡げば中身と裏腹に荘厳になる。
こうして文字となって認められてみればこれは、吸血鬼の中の人間味を本の形にして押し込めたものの様に思えた。
声は途中で不意に途切れる。
その文字列が、途中で時間切れのように締められているからだ。
それ以降を書き連ねることは吸血鬼には出来なかった。
滅ぼされたからだ。
それでも男はそのノートを―――捲っていく。捲っていく。
吸血鬼だった男の灰が撒き散らされたあの砂漠の砂地にも似た、白い空白のページが延々と続く。
それでも捲っていく。捲っていく。
かさついた紙が擦れる音だけが閉じ込められた空気に響いていた。
奴の墓など無い。作れば信仰の対象となる。
神の如く崇められている者は、皆一様にして死してその神秘さを完成させるものなのだから。
そう考えると、この手が奴を百年生きたこの世筆頭の化物から神へ押し上げてしまったのではとの皮肉な思いも過ぎる。
この手が、奴を真っ二つにして。
ならば、その空いた席には。次は誰が。
「――そこからの眺めはどうだ?」
それは唐突に、そして気紛れに始まった。
それはたまたま開いたのだろう半端な頁から。
それは今までの手記とは異なり、暗号ではなく母国の言葉で。
それは明らかに、ある一人に向けてのものだった。
私の代わりに座したそこの居心地はどうだ?
――そう、もう一度紙面は男に問う。
問いかけておきながら、それは宛てた相手の答えを必要としていなかった。
これを書いた男はもうこの世にはいないのだから。
走り書きは続く。
男の些か支離滅裂で、突拍子もない思考のままにとつとつと。
それを今こうしてノートを広げている、贈られた男はとつとつと口にしていく。
帽子の縁から覗く緑目が紙面のそれをなぞる様に泳ぐも、読み込んでいる風はない。
諳んじれる程にもう頭の中に入ってしまっているからだ。
奴がこれを己自身で読み上げたのなら、どの単語に強弱がつき、要りもしない息継ぎをするのか。勿体ぶる溜めさえも。
奴がこれを己の前で読んで聞かせたことなどないが、全て分かる。
あれらは私からの餞別だ。
お前達のジョースターを真似てみたもの、意趣返しだ。
世界中に撒いた種子を萌芽を、この血統の根を絶やしてみせろよ。
おれが貴様等にせんとした様に。
それは滅ぼした男からの死後突き付けられる挑戦だった。
勝手な講釈は延々と続く。
紙面の文字は男に答えさせない。反論させない。
酷く一方的な暴論をただただ無抵抗な己に投げつける。
それが、この頁を捲ると様相は一変する。
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手慰みに書いたのだろうか、それは血生臭い戯曲のあらすじの如く綴られていた。
読み上げるのならばきっと、優しく蕩ける籠絡の声色で。
もしこの身を砂漠に撒いたのならば、残る靴と腕環を手に手に持って、この靴がぴったり履ける男を探すといい。
シンデレラを捜しているんだと王子気取りで。
その腕輪にぴたりと嵌まる、この腕と同じ太さの別人の腕を。
その靴にぴたりと嵌まる、この脚と同じ大きさの別人の足を。
四肢を集めたらその身の記憶を頼りに胸を腹を。
糸と針で縫い繋ぎ合わせて貴様が殺した我が身を作れよ。
ああ、何一つおれではないおれに跨るお前はさぞや滑稽だろう。
さて頭はどうするか。このDIOと並び立てる造りとなると、ふむ。
いっそ人でない方がいいか。冷たさも似通う白い彫刻か。いっそひとでなく、どろりとした眼の黒い山羊でも載せてみるのはどうだ。
「自信過剰な奴だ」
そこまで読み上げて、男は漸くその紙面にない言葉を呟いた。
それは嘲った笑みともとれる。
『承太郎、お前の新しい家族だ』とでも告げて、お前の寝そべる足元へそれを置いておこうか。
目覚めたお前はきっと驚く。
この血を色濃く引いた――男。男がいい。
髪は黒。
育てろ、それを。乳の出ないその胸を慰みに吸わせて、言葉を教えて歩かせ育てろ嫌ならば、そのまま捨て置け。このDIOの産ませた子供だ、とでも付け足せば充分か。
お前が次の晩に赤子を抱いていようが、一人でベッドに丸くなっていようが、そのどちらの姿であるかを一晩賭けてみるのも面白い。
ただ、お前が我が子をどう扱うかと葛藤する様を愛でられれば、それでいい。
お前が受け入れるなら育ててみせるのも面白い。母と呼べと私は躾け、呼ぶなとお前は躾けるだろう。
物心ついた頃には息絶え絶えに啜り泣く姿でも見せてやろう。
このDIOの血を引くのならば、己が物にしたいと願えば吸血鬼の血が目覚めるのではないか。
その時にお前は絶望する様を見る、その為に館で赤子を飼うのも許してもいい。
子は、特に男は母親の為に父親に殺意を覚えるものだという、その先の血生臭い親子の殺し合いもおれの退屈を癒す。
神話とは生々しくも血生臭いものと相場が決まっている。
「悪趣味な野郎だ」
そこまで読み上げて、男は漸くその紙面にない言葉を呟いた。
それはまるで子供の途方のない空想話を呆れた笑みとも、それを見守る穏やかな笑みともとれる。
これは聖書の血生臭い一節の様で、DIOからの血生臭い
ラブレターの様相を呈していた。
それを記せば自ずと鉄錆の味がする。奴にとって血とは、それが流れる人間よりももっとずっと、生きていく為になくてはならないものなのだから。
ああ此処に書き連ねられた凄惨な造詣、その内の一つはこの身に覚えがある。
されたのだ。実際に。
思い出すだけで足の裏に、あの痛みが蘇る心地だ。
これを履いて踊れよ私の為に、そう言ってある日唐突に部下に持たせたそれを寄越してきた。
どう見てもその細いヒールと華奢な造りは女物のそれで、先に読み上げたそう、シンデレラのガラスの靴そっくりそのままだった。
床に寝転がったままに一瞥だけくれてやり、履かせたいのならばと突き付ける。
「海が見たい。夕焼けの海が」「手配させよう、行って来るといい」
「お前と見たいって言っているんだぜ。袖にするのか」
「情熱的だな、悪くない」
まるで恋人同士の睦言の様に、奴の言葉遊びに感化されているのを自覚しつつも遠回しに、それでもはっきりと――くたばれ、と告げた。
それを奴はたった二日で叶えた。叶えて寄越しやがった。
仰々しく鼻につくエスコートを受けて連れて来られたのは何てことない、閉め切られた館の中で。
「日の入り前の海は夕陽によって赤く染まるものだったな」
奴はその為に二つある湯殿のうちの一つを潰した。
湯を溜める筈のそこは赤い液体が波打っていた。
口から湯を溢れ出させていた獅子のレリーフは立ち枯れて、臓腑の中まで吐き切ってしまった様に見えた。
むっと鼻をつく香りは濃縮されて鼻がいかれそうな程で。
「日光で焼けた浜の砂は足の裏で踏めば痛いほどだと聞く」
奴はその為に溜め込んでいた宝石を陶器を砕いた。
砕いて、粉々にして、湯殿の石床をそれで敷き詰めた。
色とりどりの鋭利な切っ先は全てこちらを向いている様にすら思える。
「さあ、」
予想だにしていなかった目の前の光景に気押された背を押され、館の中ではそうしろと言い付けられた裸足の儘に踏み出せば――あっと言う間に針鼠になる弱い皮膚。
それでも追い立てられるように歩かされて、堪らずよろけたところを更に指先で、ほんの僅かに押されれば赤い水面目掛けて派手に転ぶ。
口に鼻に入ってくるこれは、強過ぎる葡萄の味。
血だと思って強張った俺の姿がそんなにも面白かったのか、牙の生えた口が小さく声をあげて笑った。
気付けば奴も裸足だった。踏み出しては破片が突き刺さりその俺よりも重い自重の為に皮膚と肉を皮膚が食い破られ。それを持ち上げればあっと言う間に修復され、そして治った傍からまたずたずたと裂ける。
そうして俺を起こすべく手を差し出してきた。邪気のある無邪気な顔。
こいつはこの為に酒蔵までも潰していたのだ。
「叶えたぞ。踊ってくれるのだろう」
これがただの靴ではなく盃だと気付いたのは、広いホールでずたずたのままの裸足にヒール靴を履かされ、溜まった血で滑るのを感じた時。
途中で足を掴まれ引きずり倒されたかと思えば、勝手に贈りつけられたそれをまた好きに剥ぎ取られ。
踵のところに唇をつけたかと思うと、傾けてそこに溜まった俺の血を飲み干したのだ。
悪趣味で、理解の範疇を超えていた。
奴はこうして理解出来ないことへの恐怖で俺の心に隙間を作り、そこにつけ込もうとしていたのだ。
ここまで醜悪な、呆れ果てを通り越した先、逆に感心すら覚えてしまう。
趣向を凝らした嗜虐。その裏のこの思い悩み様。
奴の前にいるとあの超然とした底知れなさに背筋が凍るのを、そんな素振りを見せまいと奮い立たせていたのだが。
その底の浅瀬具合は滑稽で、こうして今思うといっそ微笑ましくすら思えるのだから不思議だ。
あの凶悪な笑みはまるで大掛かりな悪戯が成功した―――餓鬼の様だったのだと思えてくる。
書き付けは続く。筆跡が荒れる。日を跨いだらしい。
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酷く凶暴な気分だ。
人間共の寝静まる夜であろうと、硬い石壁で囲い閉め切った棺の中であろうと、この世界は耳触りで仕方ない。
だがこの力を以てすればこの地上に海底の様に静かで、穏やかな世界を作ることが出来る。
一人だけの世界。
それの本質を貴様と二人で至って漸く、理解した。
裂けた肉から飛び散る血の飛沫は宙で止まり美しい雨の様になる。
その中で踊り寝床での営みの支度を。前戯を。
まぐわいの前の血浴びをしているのだ。
こうして重ねてみればそう、殺し合いは夜伽と何も変わらない。
ああ、お前の背筋が切っ先を避ける為にどこまでしなるか、手に取る様に分かる。
可笑しいとは思わんか。俺達は互いの血肉を混ぜて捏ねているのだ。それで何を生み出そうというのか。
なあ、その腕に齧り付いて溢れ出るそれを啜ってみろよ。
舌先に感じたそれは鉄錆か?
甘く感じたりはしないか?
おれの空けた席に座れ。
お前は獣のお前から逃れられない。
そうしてお前はDIOになる。
お前はこの――『DIO』になる。
その突如として始まる書き付けは、また唐突に終わり、こう締められている。
この世界は雑音に満ちている、と。
お前も――
「お前もそうは思わないか、承太郎」
インクで書き留められた吸血鬼の声にそう呼ばれた男は、それを声に出して語りかける。
柔らかく、穏やかで、共謀を誘う様に邪気を含んで愉しげに。
その視線の先には誰もいない。
この乾いた空気が充満した部屋には初めから一人しかいない。
静かな空気を不意に破るのは紙を裂く、いっそ心地良い手応えの音。
「思わないぜ、ちっともな」
後ろのページを一枚破り、口に含む。
小口を金染めした紙は上質ながらもごわついて、口の中の水分を全て奪う。
初めて知るインクの味。
ノートの後ろに書き付けられた言葉をひとつひとつ。
千切り、咀嚼して飲む下す。
それだけでは到底飲み込めるものではないそれを、奴が好んで啜っていた酒で湿らせて無理矢理ごぐりと嚥下する。
舌へに染みるよりも先にその殆どを白茶けた紙の繊維が吸い、咥内を桶として赤黒く浸されて浸けられていく。
破り、口に放り込む。ワインで浸す。飲み込む。
千切り飲み込む紙とインクの味。
契り、飲み込む救済の味。
決して少なくはない紙の片のその最後の問い掛けのページを破り、飲み下す頃には喉に些か細かい傷がついて空気が通る度に小さく痛む。
鍛え上げて締まった腹が、ずっしりと無様に膨れた様な心地を覚えた。
残り、行儀正しく頭から始まった奴の手記だけとなったそれを火にくべる。
まだまだ書き連ねるつもりだったのだろう、ぶ厚く革表紙に凝った装飾を施されたそれは――じりじりと火に炙られてまず紙の縁から黒く燃えていった。
炙られて強くなるインクと血とワインとなめした革の臭い。
男はそれが最後の革表紙の一欠片さえも灰になるまでじっと、見つめていた。
燃え終わり持ち主と同じ末路を辿ったのが分かれば、大きくなっていた火は空間ごと圧縮されたかの様にばし、とたち消えた。
まるで、大きな大きな掌がそれ以上燃え続けることを許さぬように叩き潰した様だった。
焦げた床の上、ささやかな灰の山となったそれは隙間風によって階下への石造りの階段を滑り、館の三階へと舞い散っていく。使う者のなくなり朽ちるに任せた館の中にさらさらと。
――遠くない未来、灰からこの日記を蘇らせることが出来たとしても。
お前の書いたあの途中から唐突に、俺に宛てた黙示録は最早俺の腸の中。
己が喰らってしまったそこはもう、最早この腹を裂かねば出てきやしない。
裂いた腹には何を詰める?お前の好んだ童話の様に石でも詰めて、海に沈めるか。
長く腰掛けていた棺からゆっくりと身を離せば、鋭く尖った靴の踵が絨毯の敷かれていない剥き出しの石畳を強く叩いた。
そうだ。足の裏の皮膚がずたずたと裂けていなければ、歩けるのだ。女物のヒールの高い靴でも。
こつりこつりと高めの靴音をたてながらあの日の様に向かうのは広く抜けたホール。
もう見ている者もいないそこで、男は誰ともなくコートの長い裾を持って恭しく頭を垂れる。
そして、翻らせ始めた。曲も何もない。あるのはただ鋭敏な聴覚が拾う雑音のみ。
本当の静けさというものを知ってしまった。
奴の声、息遣いしかしない世界を。
あの肌から肺から焼き付ける様な殺意でもう一度俺を炙れ。この背筋を凍らせろ。この腹を内から食い破れ。
互いの肉を削り取って血の飛沫を浴びた者にしか分からない先がある。
これは人間風情の尺度で計れぬ、化物共の恋。
さあ次は何をする?
一人取り残された舞台の上で。踊り疲れれば薔薇の棘だらけの玉座に縛り付けられて。
砂葬したあの場から人知れず持ち帰った腕輪と靴を抱いて、ぴたりと嵌まる男を探すか?
奴の種で出来た黒髪の嬰児を捜すか?
お前が啜る為に砕いた石の上を渡り踊らされたあかいくつを履いて。
お前の描いた戯曲通りに踊ってやるよ。
だから俺を、老いの薄まったこの俺を。
姿を変え形を変え、変わり果てたお前でいい。
舞台に上げたのはお前だ。だから最後は責任とって、
「来いよ、殺しに」
あの赤い彼岸で今、お前を待つ。
【幕】