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夜を司る孔雀草

 

 

 

 

 

 

 

 

誰よりも華やかで美しい男を知っている。

何年の時を経ても、老いることのない永遠の美しさ。月光に濡れた髪は流れる水面を思わし、きめ細やかな肌は白く輝く。

 

あれは人ならざるもの。

 

魅了されたら最後。甘い囁きに乗じて身を託せば、優しく絡まる尾がいづれ首を絞めるだろう。

鮮やかな色をもつ者ほど猛毒を秘めている。

それは幼い頃、父から教え聞いた教訓を彷彿とさせた。

巧みに尾を隠そうとも、純粋な心を持つ子供の眼だけは誤魔化すことはできない。

赤い瞳の裏から覗く――得体の知れない恐怖を幼い徐倫は感じていた。

 

 

 

 

父がその男を連れて家に帰ってくるのは珍しいことではない。

父を出迎えようと玄関へと駆けた徐倫は、男の姿を見るなり脚を止めていた。

「やぁ、今日もパパをお出迎えか?」

こちらを見下ろした男の微笑は優しい。だが、酷く恐ろしいとも感じられる。

理解の及ばないものへの恐怖は嫌悪と等しい。

だから徐倫はこの男が嫌いだった。

「徐倫、お客さんが来たら挨拶をしなさいと教えただろう」

嫌悪を抱きながらも恐怖を押し殺して笑顔を見せるのは、大好きな父のためだ。目線を合わせるように膝を折った父は、脚を止めたまま固まる小さい徐倫をたしなめた。

その声は穏やかだ。

甘さを含んだ声は、彼が娘に弱い証拠でもある。

優しい父の眉が困ったように下げられた。父を困らせたくない、そう思うのは徐倫もまた、同様に父には弱かったからだ。

「ダディおかえりなさい。えっと…いらっしゃいディオ」

ギュッと強く服を掴み、徐倫の父――承太郎の後ろに身を隠す。小さな声ではあったが、挨拶が出来たことを褒めるように父は徐倫の頭を撫でた。

「私の名を憶えてくれて嬉しいよ」

「頻繁に家へ上がり込んでいれば、いくら幼い徐倫でも憶えるだろう」

「承太郎の娘に名前を憶えてもらう事こそが重要なんだ、喜ばずにはいられまい」

耳触りのよい声はいつでも徐倫の心を掻き乱す。言い知れない不安を感じた徐倫は父に向けて手を伸ばしていた。何も言わず抱え上げるのは父なりの優しさか。

男の言葉に父は目を細めるばかりで返答はしない。

それでも男――ディオは愉快に笑うのだ。その表情ばかりは本心から漏れる笑みに見えるのだから奇妙でしかたがない。

幼い徐倫には皆目見当が付かなかった。

父に向けられる笑みと、己に向けられる笑みの違いを言い当てるには徐倫はあまりに幼すぎていたのだろう。

父の腕に強く抱かれたままリビングへと向かう脚は、温かな声に呼び止められた。

「おかえりなさい。家に連れて来るなら電話の一つくらいしてくれればいいのに」

「研究資料を渡すためだけに連れてきたんだ、構う必要はない」

「もう、そういうわけにはいかないでしょう?」

視線を向けずとも分かる優しい声は徐倫の大好きな母のものだ。

遅れてではあったが、普段と変わらぬ動作で父を出迎えようと姿を現した母は、ディオの姿を見るや否や慌てて髪を整える仕草をした。

身を寄せて小さな声で耳打ちされた言葉は、連絡を怠った父を咎めるものだった。

父は母にも弱い。強く窘められてしまうと、反論できないのはいつものことだ。ひそひそと声を殺しての会話は、抱えられている徐倫には聞こえていたが離れた位置に居るディオには聞こえてはいないだろう。

そんな声音で囁かれた会話は、ディオが歩みを寄せることで中断された。

「いらっしゃいディオ。せっかく来たんだから晩御飯食べていくわよね?」

「承太郎の言うように資料を受け取りに来ただけだ。それに、今から私の分も作るとなると大変だろう?」

「そんなこと気にしなくていいのよ。いつも主人がお世話になってるんだから、これくらいはさせてもらわなきゃ」

「おや、それではお言葉に甘えようかな」

ディオが家へ訪れれば、必ず行われる恒例の会話。父は母とは違い、率先して引き留めようとはしない。けれど、決して追い出そうともしない。静かに成り行きを見守っているだけだ。そこに自らの意志は反映させてはならないとでも言うように、父は頑なに口を噤む。

僅かながら、徐倫を抱き上げる腕に力が籠ったような気がした。

父の表情を窺い見た徐倫は人知れず静かに――早く帰って欲しい。そう胸の内で思った。

その願いは幼いながらに父を守ろうとする本能だったのだろう。

承太郎には徐倫がいる。

父には大切な家族がある。

仕事が忙しく家を空けている事も多いけれど、時間さえあれば家族に時間を割く人だ。家族全員で囲む食卓は賑やかで母の笑顔は絶えない。そんな温かな時間が徐倫は大好きで、温かな家族が大好きだ。

父が居なくなることは有りえない。

有りえないことだけれど、いつかこの男に奪い去れてしまうんじゃあないか。そんな言い知れない恐怖を、常に胸の内に抱いていた。

 

だから、父の教えを破りノックをせずに扉を開けたのは故意だった。

もし返事が返って来なかったらと恐怖したのだ。

 

二人が帰宅して数十分の時が流れていた。

リビングには空腹を誘う香しい匂いが広がり、家族が揃うのを待っている。晩御飯の準備が出来たことを伝えに、書斎へと駆けた徐倫は扉を開けて見えた光景に息を飲んだ。

 

コートは僅かに肌蹴られ、白い首筋が覗く。

皮膚へ口づけるようにディオが、承太郎の首筋へ顔を埋めていた。

身体を這う手の動きに承太郎の口から熱い息が零れる。頬は僅かに赤く色付いていた。

艶めかしくも身体に回された手は、承太郎を絡めて放さない。

首筋に這わされた舌は毒々しいほど赤かった。

まるで蛇のようだ。

息をするのも忘れ、魅入っていた徐倫はふとそう思ってしまった。

承太郎の薄く開かれた目はどこか遠くを見ている。感情を殺しているとも窺えるその表情は、徐倫の不安を強く煽った。

こんな父の表情は見たことが無かった。

「ダディ!」

連れてなんて行かせない。

徐倫の胸に湧いた強い想いから押し出され、大きな声が出ていた。

声に反応した承太郎の視線が宙から反れて徐倫を射抜く。虚空を映した瞳に、光が灯る。柔らかくも温かなその眼は、徐倫が良く知る父親の眼差しに変わりはなかった。

「徐倫どうしたんだ?」

「・・・ご飯できたって伝えにきたのよ」

「そうか、ありがとう。直ぐに行く」

徐倫には何が起こっているのか分からなかった。

夢を、見ていたんだ。

そう感じるほど父の様子は普段と変わらないものだった。

見えていた光景は散り、跡形も残ってはいない。拭えない不安が悪夢を見せたのかもしれない。そう考えることでしか徐倫は現状を認識することができなかった。

 

コートはしっかりと羽織られている。

ディオは難しい言葉を書き連ねた紙の束を見つめていて、父の瞳は真っ直ぐに徐倫へと向けている。

そして二人の距離は、普段通り――不自然なほど空いていた。

 

歩みを寄せて小さな体を抱き上げた承太郎は徐倫がよく知っている父親で間違いなかった。顔色が優れない点を除いては。

直感でしかない。

証拠も根拠も存在しない。

不意に向けた視線はディオへの疑惑からだ。

息が詰まり、身が竦む。

交差した眼差しは狂気を孕み、赤い瞳の奥には黒く淀んだ炎が灯されていた。

向けられた視線が逸らされることはない。ただ、静かにこちらを射抜く眼光は酷く恐ろしいものだった。

背筋を通り抜けた冷たい殺意に恐怖した徐倫は、己を守るように。そして父を守るように強く承太郎にしがみついていた。

 

 

 

 

 

幼い頃の記憶は、時が経つにつれて曖昧なものになる。

恐れという感情を抱きこそすれ、その理由までは覚えていない。成長した分だけ記憶は薄れてしまうものだ。

徐倫が19の歳を刻んだ頃には、ディオへと抱いた恐怖はすっかり姿を潜めていた。

蛇の尾は未だに絡みついたまま、機を待っているだけだということを忘れてはならなかったというのに。

 

 

 

 

 

忙しなく鳴らされるチャイムは家主を呼び出すためには、些か乱暴すぎる。あまりの煩さから開け放たれた扉越しに見えた表情は、訪問者の存在を確認するなり取り繕われた。

「こんばんは徐倫、夜分遅くにどうしたのかな?」

「こんばんはディオ、不躾で悪いんだけど今晩泊めてくれないかしら」

今晩という言葉を漏らした徐倫ではあるが、抱えられた荷物は一晩泊まる分には多すぎる。返答を聞かずして玄関に脚を踏みいれた徐倫を見つめるばかりで、ディオは止めようとはしなかった。

「まるで家出してきたという風貌だな」

「ええ、その通りよ。口論になっちゃって、家に居づらいからディオの家にでも泊めてもらおうと思ったのよ」

幼い頃から知っている。勝手知ったる他人の家に厄介になろう。そんな軽い気持ちで徐倫はディオの家を訪れていた。

両親と共にこの家へ訪れたことは幾度もある。一人で暮らすには広すぎる部屋に住んでいることを知っていた徐倫は、これ幸いと利用させてもらおうと思ったのだ。

長い付き合いから親戚のような気軽さで話の出来る相手だ。ディオを恐れていた時期も確かにあったが、それは幼さ故の人見知り、というものだったのかもしれないと徐倫は思う。

堅物な父とは違い、ディオは気さくで話のわかる人だ。言葉を交わしても歳の差は感じられず、同年代の友人と話しているのではないかと錯覚してしまう程度には、巧みな話術を持っていた。

幼いころから知っているという強みも加わり、徐倫がディオに懐いてしまうのは必然とも思えた。

けれど、徐倫がディオと関わることを父は良しとはしなかった。

ディオはいつでも快く手を差し伸べる、その手を取ろうと手を伸ばせば父が行く先を阻むのだ。

何故そこまでして、頑なに遠ざけようとするのか。

その理由を徐倫は知らない。

父へと抱いた反発心が、徐倫をこの場に赴かせた最大の要因だった。

恋人を紹介し、結婚したいと報告をするまで徐倫は幸せの絶頂にいた。そこから始まった父と娘の問答は次第に激化し、気付けば口論となっていた。

父と交わした激しい口論の決着はついていない。

ここ数日、口も利いていない。

父に反発したかったのだ。もう、親の言うことに黙って従うほど子供ではないのだと、証明したかった。

「あまり言いたくはないのだけど、家出の理由くらいは話した方がいいのかしら?」

部屋に上がり込み、身の置き場を確保しようと辺りを見渡す徐倫の後ろでディオは静かに動向を見守っていた。

理由を述べるのは単なる口実に過ぎない。

本音を言えば、愚痴を聞いてもらいたかった。愚痴を聞いたうえで、ディオがこちらの味方になってくれれば、父の考えを変えることができるかもしれない。そんな僅かな希望さえ抱いていた。

無知は罪であり、幸福でもある。

徐倫はなにも知らなかった。

己のことだけを考え、幸福の最中にいる事を幸福とも感じず、奔放に生きていた徐倫は、父の言うとおり、まだ子供だったのだろう。

荷物を置こうと考えもなしに寝室の扉を開けていた。

ガチャリと回るドアノブの音は軽い。

薄い、たった一枚扉を隔てた部屋の先へ脚を踏み入れることで、世界が一変するなんて誰が想像できただろう。

「いや、大体のことは承太郎から聞いているから必要はない」

静かな声は、やけに耳へと大きく響いた。

ディオの言葉にドキリと心臓を跳ねさせた徐倫は、慌てて後ろを振り返ろうとした。

開いた扉から差し込む光は視界を照らす。

暗闇から浮かび上がったその姿に目を奪われた徐倫は、もう、振り返ることはできなかった。

見間違える筈のない人物の姿に、徐倫の言葉は声となる前に飲み込まれていた。

徐倫の横をディオが悠然とした足取りで通り過ぎる。その脚は真っ直ぐと迷うことなくベッドで眠る承太郎の元へと向けられた。

眩しい光に瞼を震わせた承太郎は重たげに眼を上げる。まだ覚醒していないのか、眠たげに彷徨わせた視線は身を寄せたディオを捕えた。

「ん…DIO?」

「すまない、起してしまったようだな。もう少し眠るといい、まだ朝までは時間がある」

優しい声音で囁かれた言葉は甘く鼓膜を震わせる。幼子を寝かしつけるような、慈愛すら感じられた。

声に誘われ、再び眠りの淵に落ちた承太郎からは規則正しい寝息が聞こえた。余程疲れているのか、眠りは深く見えた。

愛おしげに細められた眼差しは承太郎を見つめている。おやすみのキスとは違う、甘味な口付け――恋人にでも贈るようなキスを降らしたDIOは満足げに顔を上げて此方を見た。

眼差しが交差した瞬間、絡みついた尾が強く首を絞めあげる。

静かにこちらを射抜く眼光に身が竦み、息が詰まった。

 

なぜ、今まで忘れていたのか。

 

幼い頃に抱いた恐怖は、曖昧になっても完全に消え失せることはない。掘り起こされた記憶は、巧妙に隠された蛇の尾が、今もまだ、承太郎に絡みついていると解釈するには十分すぎるものだった。

弧を描き、暗闇の中でも薄明るく光を帯びた赤の眼が、獲物を捕らえた蛇の嘲笑を思わせる。

「ディ…ッ」

「何か言いたい事があるのだろうが、承太郎を起したくはない。話は他の部屋でしようじゃあないか」

DIOに噛みつこうと開きかけた口は、人差し指を唇に押し当てられることで遮られていた。

もう取り繕う必要はないとでも言うのか。向けられた眼差しは冷たく、浮かべられた笑みは今まで見たことがないほど不気味で美しいものだった。

 

 

 

 

 

紅茶を淹れてもらったことは幾度もある。それでも、今ばかりは毒が入っているのではないかと疑わずにはいられなかった。

差し出されたカップを凝視する徐倫を嘲笑うようにDIOが口元を歪める。耳障りな微笑に徐倫は視線を上げていた。

「ああ恐ろしい。承太郎に似て威勢がいいのは良いが、女が男に向ける眼差しではないな」

「あんただって同じよ。レディに向ける眼差しとはとても思えないわ。さながら、あたしは蛙とでも言ったところかしら」

「言い得て妙だな。それでは私を蛇だと言っているようなものじゃあないか」

DIOは笑みを絶やすことはない。

冷徹な眼差しのなか浮かべられる笑みは、不気味の一言だ。目の前に居るのはディオで間違いないというのに、徐倫は今誰と話しているのか分からなくなっていた。

姿形はディオだが、違う誰かと話している。

そんな錯覚を生むほど、徐倫の知っていたディオとは異なる。

今まで見せていた面は全て偽りだったとでも言うのか。正面に座っているだけでも感じられる威圧は、今も徐倫の首を締め上げようと尾を伸ばしているようだ。

言葉を発することさえも許されない。

そんな威圧に押しつぶされまいと徐倫は息を詰まらせながら口を開いた。

「あんたは父さんにとっての何なの?」

「奇妙なことを聞く。お前も知ってのとおり私は承太郎の助手でしかない」

「違う、そんなはずないわ。だって…」

その先の言葉はとても口には出来なかった。口にしては、例え憶測であっても事実になってしまう気がした。

苦悶の表情で言葉を途切れさせた徐倫を見て、DIOは笑う。その笑みの意味は愚鈍な娘を嘲笑うものか。

正しい答えはDIOにしか分からない。

「何か勘違いをしているようだが、私の言葉に嘘も偽りもない。今は助手として傍に身を置いているだけだ」

「それじゃあなんで…」

「承太郎がそこで寝ていたのか、という質問については答えかねる。たかが親子喧嘩とはいえ、私が口を挟む筋合いはないだろう。だが、一つだけ言える事があるとすれば、承太郎が私を頼ってくるという愛らしい一面を見る機会を与えてくれたことには感謝したい、という言葉くらいか」

その声は吐き気を催すほど、甘く、重い。

捕食者の眼は血ほどに赤かった。

生血を固めたように毒々しい赤は、徐倫を見ているようで、見ていない。狙いを定めた獲物――承太郎の姿を見ているのか、燃え盛るような情緒を帯びている。

悍ましくも耽美な眼差しを見た徐倫は、堪らず背筋を震わせていた。DIOが承太郎に対して見せる執着の意味を理解できないほど、徐倫はもう子供ではない。

「あんたの為にやったわけじゃないわ」

「結果が全てさ。意図せずとはいえ、このような結果を招いたのは事実。例えそれが予期せぬ事柄であったとしても、結果が全てだ」

じわりと侵食をはじめた感情が胸をざわつかせる。

DIOが一言、言葉を漏らす度に生まれてこの方抱いたこともない黒い焦燥が胸に広がりはじめる。

 

目の前で優艶に笑う存在は、人ではない。

息ながらにして毒をまき散らす、悪の根源だ。

 

胸を焼け焦がすほどの強い怒りに浸食されはじめた己の身に気付いた徐倫は、そう思わずにはいられなかった。

「過程はどうでもいいってわけ?」

「結果が伴えば問題はない」

「あんたにとっては今この時でさえも、どうでもいい過程に過ぎないというのね」

「お座なりにしているつもりはない。私は私なりの方法で楽しませてもらっている……、的は射ているがね」

DIOの言葉は淡々とした口ぶりで吐き出される。

いつかこの時が来ることを知っていたかのような、手の上で弄ばれているとも感じられる返答に徐倫の苛立ちは募った。

DIOは父の助手をしている。それは間違いない事実だ。

けれど、それはDIOにとっては只の過程に過ぎない。父の傍に身を置き、身動きを取れないように絡めとることが出来れば、どのような形であってもDIOには構わないのだろう。

 

DIOは父の助手であって、助手ではない。

 

思惑次第で如何様にも姿を変えられる名前のない怪物は、ただ一つの結末に向けて舌なめずりをして待っているのだ。

「何を企んでいるの…父さんに、何をする気なの!?」

想像にも及ばない事態が遠くない未来で起こる。

そんな予感に口から溢れた言葉は威勢こそ良かったが、無様にも震えていた。

抱いた恐れは、声を通して伝わってしまう。声を殺した小さな笑いは、嘲笑と呼ぶには割に合わないほど弾んだものだった。

「まるで悪人のような扱いだな。企んでなどいないさ、ただ約束の時を待っているだけだよ」

「約束…?」

「ああ、いづれ訪れる、至高の瞬間だ」

宙を見つめる赤い瞳は恍惚に濡れ、蕩けるように甘い声が、その場の空気をもドロリと重くする。

息をするのもやっとだ。語られる言葉の一つ一つが重く身体に纏わりついて、身動きすらできない。そんな錯覚を起こす。

浅い呼吸を繰り返す徐倫には見向きもせずDIOは優艶とした態度で語り続けた。

「人は死を乗り越えることは敵わない。だが、私ならばその先へ誘ってやることができる…その先で漸く、私たち二人だけの世界が完成するのだ」

気分が高揚しているのが語られる声からも分かる。想像した未来に思いを馳せたのか、歓喜で声は震えている。興奮を隠せないDIOは堪えきれずに笑みを浮かべていた。

 

徐倫にはDIOの語る世界が想像できない。

人知の超えたものを想像できるはずがない。

 

もはや、気が狂っているとしか思えなかった。

DIOの口から語られる言葉は人の域を超えている。現実味のない夢物語を、どうやって理解しろというのだろう。

言葉を失った徐倫を見たディオは、にたりと微笑んだ。

「そんな顔をしたところで一緒に連れて行ってなどやらないぞ。あれは、元より私のものだ。少しの間、貸しているだけでね。私にとっては人間の一生など一瞬だ。これから長い時間、共に歩く未来が待っているのだから、人間として生きている間くらいは譲歩してやるのが愛情というものだろう?」

DIOの言葉はどこまでも甘く鼓膜を震わせる。

これほどまでに愛されて、父はなんて幸せ者だろう。そう納得させられていまいそうなほど耽美に響いた。

何も知らなければ、それが幸福なのだと受け入れていただろう。けれど、徐倫の瞼の裏に焼けついた父の存在が、それを許さなかった。

父はいつも徐倫を守っていた。

頑なに遠ざけ、接触を阻むのは、全てはDIOの毒から徐倫を守るため。その事実に気付いてしまった徐倫は、DIOの言葉を鵜呑みにするわけにはいかなかった。

なんて傲慢な生きものだろう。

徐倫は視界が真っ赤に染まるほどの瞋りを覚える。これ以上、この感情を抑えつけることは敵わない。

「父さんは望んでないわ」

「それはお前の理想だ。承太郎は交わした契りを違えるような男ではないと、お前が一番よく知っているだろう?」

「約束?そんなものクソ食らえだわ。約束なんてものはね、破る為にあるようなものなのよ。一方的な口約束なら尚更。父さんが何と言おうと、あたしが絶対に許さない」

徐倫の眼は雄々しく、輝く。父親譲りの強い眼差しは射殺さんばかりにDIOを貫いた。

ほんの一瞬、DIOの瞳が揺れる。

今まで徐倫へと向けられていた虚無からの殺意は、僅かに抱かれた興味で色を変えたようにも見えた。

「その眼差しは出会った頃の承太郎によく似ている」

徐倫がDIOへと向けたのは強い殺意の込められた眼差しだった。

父を彷彿とさせる、その眼差しに魅了されたDIOは零れんばかりの笑みを浮かべる。

それは徐倫がディオから向けられた最初で最後の、本心からの浮かべた笑みだった。

「これだからジョースターの血はたまらないのだ」

その声は興奮から僅かに震えていた。

DIOは徐倫に向けて手を伸ばす。伸ばされた手が何をしようとしていたのか、徐倫には最後まで分からなかった。

 

首を絞めようとしたのかもしれない。

承太郎を彷彿とさせる目玉を抉ろうとしたのかもしれない。

 

DIOという男の思考を理解することなど徐倫には到底できはしない。通常の人間であれば、その思考には到達できないものだ。

 

けれど一人だけ。

思考を分かつことが出来た人間がいたのかもしれない。

 

己を殺そうとする者の眼差しに魅了される男は奇怪だ。

だがそんな男を引き寄せた男もまた、奇怪な存在なのだろう。

 

「目移りは良くないぜ、DIO」

突然頭上から降ってきた穏やかな声が徐倫の耳に響く。

優しい声音は徐倫や母に向けられるものと幾分も変わらない。慈悲の込められたものだった。

暗闇に染められた視界はなにも映すことができない。視界を覆うように宛がわれた手は温かく、背で感じる軽やかな胸の鼓動だけが父の――承太郎の存在を色濃くした。

こちらへ近づいてくる存在に徐倫は気付いていなかった。

ひとつ、瞬きをする間に視界は暗闇に閉ざされていた。

目を塞がれた瞬間も、父に抱き止められた瞬間も、徐倫には認識できなかった。

あまりに一瞬の出来事を、理解しようにも頭がついていかない。ただ一つ、分かることがあるとすれば、また守られてしまったということだけだ。

「お前は俺だけを見ていればいい」

視界を覆われていて二人の姿を見ることは敵わない。

承太郎がどのような表情を浮かべて、DIOに囁いていたのかを徐倫は知ることができない。

「お前の牙は俺だけに向ければいい」

DIOの貪り求める心を満たすための言葉は甘く、脳髄に響く。

徐倫は耳を塞いでしまいたかった。視界を覆ったのは見られたくはないという承太郎の意志の表れだ。では、何故耳まで塞いではくれなかったのだろう。

「お前の貪欲で、愚行で、醜い部分は全て俺が飲み込んでやる」

DIOに向けて放った徐倫の言葉を、承太郎は聞いていたのだろう。徐倫の意志を聞き、DIOの意志を聞いたうえで、出した答えがこの言葉なのだ。

DIOの傲慢を甘んじて受け入れている。この行為は暗にそう伝えるためのものでもあったのだろう。

「お前を愛してやれるのは俺だけだぜ」

蕩けるほど甘い言葉を、徐倫は黙って聞いていた。

言葉を交わした徐倫だからこそ分かることがあった。

 

甘い囁きは時に人を惑わし、害を及ぼすだろう。

DIOという男は、世界をも揺るがす猛毒を身に孕んでいる。

野放しにするには、あまりにも危険すぎる存在。

 

それを理解してしまったからこそ、徐倫は承太郎の言葉に口を挟むことができなかった。

DIOは他人に興味を持たない。

いつも向けられていた虚無の眼差しがそれを物語っていた。

人を人として見ていない。そう感じられる眼差しが、幼い頃の徐倫にとっては何よりも恐ろしいものだった。

けれど、承太郎だけは例外であることを徐倫は知っている。

 

眼差しは熱い。

情を秘めた瞳は、淡い光を帯びている。

一心に向けられる情は、毒にも等しい。

 

絡められたままの尾を引き剥がそうとすれば、DIOは躊躇いなく猛威を振うだろう。それはきっと、承太郎の望まない結末への道に繋がってしまう。

この穏やかな日常を幸せと称すなら、幸せを継続させるために、DIOから一心に向けられる毒を飲み込むこともまた、幸せの一部。

そんな形で手に入れた世界は、はたして本当に幸せだと言えるのだろうか。

この日常は、一人の男の幸福と引き換えに得た、仮初めの幸せなのではないだろうかと、徐倫は思わずにはいられなかった。

 

 

 

 

 

 

誰よりも儚く美しい男を徐倫は知っている。

伏せられた長い睫からのぞく瞳は海を想わし、身に纏ったコートが靡く様は雄々しい羽を広げているようだ。

鮮やかな色を持つ存在は人を魅了してやまない。

本人が望もうとも、望まざろうとも、人を惹きつけてしまう。

 

幸か不幸か、魅入られたのは蛇。

孔雀とは本来、毒蛇を食らう生き物だ。

毒を食らいつくすのが先か、はたまた、毒に犯され身を滅ぼすのが先か。

その結末を知ることができるのは、当事者である本人達だけだろう。

 

 

 

 

 

 

[end]

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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Masked World Star DIO承テイスティング企画

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